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破竹の勢いで連勝する日本軍 その裏で激化した、陸海軍の対立

2026年08月10日 公開
2026年08月10日 更新

波多野澄雄(筑波大学名誉教授)

海

太平洋戦争の開戦とともに東南アジアを席巻した日本軍。英米が強固な軍事同盟へと突き進む一方、連勝に湧く日本軍内部では「守勢」か「攻勢」かを巡る陸海軍の溝が深まっていた。焦点となったオーストラリア防衛と、米豪遮断作戦へと至る葛藤を解説する。

※本稿は、波多野澄雄著『なぜ日本は米英中ソと戦ったのか』(PHP新書)から一部を抜粋・編集したものです。

 

南方進攻と米英の結束

日本の南方攻略作戦は1941年12月8日、マレー半島コタバルへの奇襲上陸に始まった。もう一つの上陸地、中立国タイのシンゴラは、日本軍の上陸直前に、ピブン首相と坪上貞二大使との間で日本軍のタイ領内通過を認める議定書に調印していた。いずれも、真珠湾奇襲より1時間以上前であった。その後の主要戦場は、しばらくは東南アジア、インド洋方面であった。

12月10日には、「対日抑止」のため極東に派遣されていたイギリスの新式戦艦プリンス・オブ・ウェールズと高速戦艦レパルスが日本海軍の基地航空戦隊の魚雷攻撃で撃沈し、イギリス極東艦隊の主力が壊滅た。両艦は、12月2日にシンガポールに到着したばかりで、日本軍の輸送船団を撃破するため、八日に友軍による航空支援がないままシンガポールを出港したところ、仏印南部から発進した日本軍機に発見された。

真珠湾攻撃とマレー半島奇襲上陸の報告を受けたチャーチル英首相は、彼の幕僚たちと、レパルス、プリンスの両艦を残存する米艦隊と太平洋で合流させ、オーストラリアの防衛の「最善の盾」とする方向で議論していた。イギリスにとってのオーストラリア防衛の重要性を物語っている。

ところが、それから2時間も経たないうちに両艦は海底に沈んでいた。両艦轟沈の電話連絡を受けたチャーチルは、「すべての戦争を通じて、これ以上、直接的な衝撃を受けたことはなかった」と回想している。「真珠湾の残存艦隊を除いて、インド洋にも太平洋にも英米の主力艦隊がいなくなった」のである。

チャーチルは対日宣戦の手続きを終えると、直ちにワシントンに向かった。英米間の密接な協力が何よりも優先する、と考えたからである。チャーチル一行は、ドイツのUボートを避けながらジグザグ航法で大西洋を渡り、12月下旬にワシントンに到着した。直ちに英米高級軍事会議が開かれ、英米合同の「三軍参謀首脳会議」の設置など、緊密な軍事的提携のための仕組みが確立された。チャーチルが「同盟国の間にこれ以上有効な戦争機構が確立されたことはなかった」と回想する通り、連合国の「大戦略」を支える英米の「特別な関係」をよく示している。

 

東南アジアの席巻と要衝の占領

この間、12月10、堀井富太郎海軍少将を隊長とする日本陸海軍は、マリアナ諸島の米領グアム島に米軍守備隊を圧倒して上陸した。まもなく日本によるグアム島統治が始まり、海軍が民政部を置き、他の植民地と同じく学校における日本語教育など「日本化」が進められる。

翌42年1月末にはマレー半島全域、2月中旬にはシンガポールが占領された。フィリピンでも1月2日にマニラが占領され、バターン半島に立てこもって抗戦した米比軍も4月9日に降伏した。

マレー、フィリピンの作戦が予定より早く終了したため、参謀本部は蘭印作戦を繰り上げ、42年1月20日にはジャワ島攻略を命じた。日本軍は周辺のボルネオ、セレベス、チモール、スマトラなどの諸島を攻略、2月14日には、陸軍の空挺部隊がスマトラ島のパレンバンに落下傘部隊を急襲降下させ、製油所や付近の飛行場を制圧し、オランダ軍による石油施設の破壊を防いだ。3月1日に主力の第一六軍がジャワ島に上陸した。上陸軍はほとんど抵抗を受けることなく、オランダ軍を無条件降伏させた。油田地帯が破壊される事態も避けられた。マレー作戦の順調な進展で予定を早めたビルマ攻略作戦も、5月初旬までにほぼ完了した。

 

激化する陸海軍の対立とオーストラリア攻略の行方

1942年2月初旬、東條首相は、陸海軍の南方作戦が一段落した後の作戦計画や戦争指導の検討を命じた。最も重要な問題は以後の戦争をどのように進めるかであり、3月7日に大本営政府連絡会議は第1回「戦争指導大綱」を決定した。この大綱は、緒言で占領地域の重要資源の開発、海上交通線の確保のほか、「長期不敗の態勢を整えつつ機を見て積極的の方策を講ず」と述べていた。この不明瞭な表現の裏には、陸海軍の激しい戦略論争が潜んでいた。

陸軍は、南方の要域を確保した段階で戦線の拡大を抑え、長期持久戦に転移すべきと主張した。南方圏域内の防備を固め、資源開発と国力増強に努めようというのである。

一方、海軍は、このような守りの姿勢では、やがて増強される連合国の戦力に圧倒され勝機を見出すことは不可能になるため、引き続き攻勢作戦を続行すべきだと主張した。とくに、オーストラリアを英米の対日反撃拠点として重視していた軍令部は、陸軍と妥協のうえ、米豪遮断作戦によるオーストラリアの孤立化を図ろうとした。

42年2月、第2段作戦について軍令部と参謀本部の調整協議が行われた。そこでの主題の1つは、オーストラリアの攻略であった。参謀本部は10個師団以上を大陸から抽出する必要があるとして反対であった。

他方、オーストラリアが対日反攻基地となるのを防ぐ必要性については両者は一致し、小規模な陸軍兵力による協力を前提に、米豪遮断作戦を実施することになった。フィジー、サモア、ニューカレドニア攻略作戦(F・S作戦)がこれであった。結局、陸海軍ともに譲らず、第1回「戦争指導大綱」では守勢、攻勢の両論を併記した形となった。

たしかに、オーストラリアは米英にとって重要な反攻拠点であった。米陸軍は太平洋における危機的状況に直面し、オーストラリア防衛のため、42年1月から3月にかけて、8万人の部隊を太平洋に向け出発させていた。陸軍航空機も数百機がオーストラリア、ニュージーランド、太平洋諸島に配備され、太平洋方面は米陸軍にとって重要な戦略正面となっていた(赤木完爾「米英ソ『大同盟』における対日戦略」)。

プロフィール

波多野澄雄(はたの・すみお)

筑波大学名誉教授

1947年、岐阜県生まれ。77年、慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程修了、博士(法学)。防衛庁防衛研修所戦史部研究員、筑波大学教授、国立公文書館アジア歴史資料センター長、外務省『日本外交文書』編纂委員長などを歴任。著書に『太平洋戦争とアジア外交』(東京大学出版会)、『日本の歴史問題』『日本終戦史1944-1945』(いずれも中公新書)、『幕僚たちの真珠湾』『広田弘毅』(いずれも吉川弘文館)、『決定版 大東亜戦争(上・下)』(共著、新潮新書)など。

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