七三一部隊──。正式名称は関東軍防疫部(1940年より関東軍防疫給水部〔満洲第六五九部隊〕。七三一部隊はそのなかの本部を指すが、一般的に部隊全体の通称とされる)。
戦場の日本兵に飲用水を供給し、細菌感染を防ぐ防疫給水を表看板に掲げ、背後で細菌戦に使用する細菌兵器の開発と製造、およびそのための人体実験(生体実験)を繰り返した部隊だ。
彼らを統括したのは、部隊の創設者で京都帝国大学(現京都大学)医学部出身の陸軍軍医(最終階級は軍医中将)、石井四郎である。
本稿では、1942年5月に発生した中国雲南省コレラ大流行と日本軍の細菌戦との関連について広中一成氏に解説して頂く。
※本稿は、広中一成著『七三一部隊の日中戦争』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです
『日本侵華細菌戦研究報告』には、滇西(てんせい)と呼ばれた中国雲南省西部における日本軍の細菌戦についてこう述べられている。
「太平洋戦争開戦後、日本帝国主義は中国の戦場で残酷に攻め込む一方、重慶を中心とする戦場後方に圧力を加えた。一九四二年五月、中国東部で浙贛作戦と細菌戦が行われていたとき、中国西南方面では、日本軍が滇緬(てんめん)公路を遮断後、大挙して滇西地区に進攻し、保山地区では大規模なコレラ菌攻撃作戦を実行し、滇西地区でコレラを大流行させた」
滇緬公路とはビルマ公路ともいい、ビルマ中部のラシオ(ラーショー)から中国との国境を越えて、雲南省都の昆明に達する援蔣ルートのひとつだ。
菊池一隆『中国抗日軍事史』をもとに、日本軍がどのようにして雲南省西部に至ったか簡単に見ていく。
シンガポール陥落後、第一五軍は、ビルマ方面からの援蔣ルートの遮断とイギリス植民地のインドに対する反英運動を促進するという参謀本部の方針を受けて、ビルマ南部へ進撃。
42年3月8日、同国首都ラングーンを占領する。ここは援蔣ルートのひとつであるビルマルートの起点となっており、途中でビルマ公路とつながる。第一五軍はさらにビルマ北部へ進攻し、中部の中心都市マンダレーを攻略後、ビルマ公路に沿ってラシオから雲南省境へと進む。
すでに雲南省西部には、国民革命軍の9個師約10万人からなる中国遠征軍が配備されていた。同軍は太平洋戦争開戦後の41年12月26日に中英両国によって結ばれた「中英ビルマルート共同防衛協定」にもとづき、42年2月、イギリスの要請を受けて派遣された。指揮したのは、アメリカ陸軍のJ・スティルウェル中将だ。彼は1月に成立した東アジアにおける連合軍最高統帥機関の中国戦区統帥部で、総司令の蔣介石のもとで参謀長を務めた。
スティルウェルに率いられた遠征軍は、イギリス軍とともにマンダレーやラシオの防衛にも当たるが敗北し、彼と第一路司令長官の羅卓英はインドに逃げ、同軍の一部も雲南省西部へ退いた。
5月初め、第一五軍が雲南省西部に入り、保山の西側を流れる怒江の線まで進むと、遠征軍は、そこに架かる恵通橋を爆破し第一五軍の進路を断った。以後、両軍は川を挟んでにらみ合いを続ける。
当時、保山県立中学に通っていた張力「日機轟炸保山的前前後後」(『雲南文史資料選輯』第39輯所収)によると、恵通橋をめぐって戦いが起きていた5月4日、保山上空に54機の日本軍機が現れ、空襲を繰り返した。それからまもなくして、次の事態が起きた。
「空爆後、急性のコレラが発生した。症状は腸が絞めつけられるように痛く、嘔吐や下痢を繰り返しのたうち回る。この病気の感染速度はきわめて速く、時を置かずに亡くなった。たとえば、ほんの数時間前に談笑し、少しも症状がみえず、午前中に死者の埋葬を手伝っていた者が、感染して数時間後にはあの世に行ってしまったのだ」
保山のコレラ流行は5月15日から16日にかけて近隣の村から始まり、6月10日頃にもっとも感染が広がった。ある村では住民の半分以上が命を落とす。
中国遠征軍の第一一集団軍総司令部軍医処に勤務していた軍医の婁仁遠によると、このとき、怒江の対岸にアメリカから送られてきた医薬品を載せた車両が到着していたが、日本軍の妨害にあって遠征軍のところまで輸送できずにいた。婁は第一一集団軍軍長の宋希濂にそのことを伝えると、宋は20人からなる特戦隊を編成し、婁とともに決死の覚悟で対岸に進んで医薬品を回収するよう命じた。
日本軍の砲火をかいくぐって医薬品の確保に成功した婁は、ぶじに帰還すると、コレラで苦しむ感染者の治療にあたり、およそ1000人の命を救ったという(金亜敏編「人物放談録 婁仁遠 中国遠征軍軍医」、「彩虹青年聯合体」、2016年7月13日)。
婁の活躍のほかにも、雲南省政府衛生処は医療部隊を保山に派遣し、住民およそ8万人に対しワクチン接種を行なう。当時、衛生処医政科長だった陳朝覲は「抗戦時期昆明的医療救護」(『昆明文史資料』第7輯)で、こう回想する。
「一九四二年五月二日、日本軍はビルマから雲南省西部の畹町(えんちよう)に進攻し、龍陵・芒市・騰衝(とうしよう)を相次いで占領し、飛行機で保山・下関・祥雲・昆明を爆撃した。細菌戦も行われ、人間を絶望に追いやるコレラ細菌弾を投下し、雲南省西部に細菌の被害を蔓延させ、昆明から省全体に感染を広げた。昆明市のコレラ患者は市立病院に収容して隔離治療を行ったが、わずか半年で、収容人数が五〇〇人以上となった」
これらの回想から、雲南省西部での細菌戦はコレラ菌が用いられたこと、保山だけでなくその先の昆明まで爆撃され、コレラが蔓延したことがわかる。「井本日誌」で細菌戦の標的のひとつに昆明があり、これはその計画のもとに行なわれた可能性がある。しかし、この細菌戦が第一五軍隷下の威部隊が実行したかは、この回想だけではわからず、日本側の史料も今のところ見つかっていない。
尚敏「雲南省霍乱流行史略」(『大理州文史資料』第4輯)によると、雲南省で初めてコレラが発生したのは1939年7月で、昆明市の最初の症例は貴州省貴陽から来た馬丁(馬の世話役)で、昆明の沿線上にあった27県市に感染が広がる。
この流行は11月には収束したが、その間に患者は3487人、そのうち死者は2521人にのぼり、死亡率は72.2パーセントに達した。さらに、尚は言う。
「二回目の大流行は民国三一年から三五年(一九四二─一九四六)で、日本の侵略戦争によって、日本軍がビルマから進攻して、芒市・畹町・盈江・騰衝・龍陵と相次いで陥落し、多くの華僑と避難民が雲南省境に押し寄せた。これによりビルマのマンダレーやラシオ一帯で流行していたコレラがビルマ公路を伝って雲南省に流入した」
つまり、雲南省西部で蔓延したコレラは、日本軍の細菌戦だけでなく、戦火から逃れようとした人々の移動によってももたらされたのだった。
いずれにしても、この被害の根本原因は戦争を引き起こした日本にあることには変わりない。
更新:09月09日 00:05