
日本海軍は、近代日本の社会にどのような影響を与え、また社会からどのような影響を受けたのか。『日本海軍と近代社会』(吉川弘文館)は、国際関係、政治、軍事、経済など多角的な視点から、海軍が存在した時代を解き明かす。現代社会を生きる私たちにとって重要な指針となる一冊を、京都大学教授の奈良岡聰智氏が紹介する。
※本稿は、『Voice』2024年3月号より、より抜粋・編集した内容をお届けします。
2023年、日本海軍の歴史に関心をもつ者にとって、たいへん興味深い展覧会がいくつか開催された。
一つは、広島県呉市の大和ミュージアムで開催された企画展「海軍を描いた作家 阿川弘之・吉田満・吉村昭」。軍隊ないし戦争経験をもつ三人の歴史作家に焦点が当てられ、取材ノートなどさまざまな資料が展示された。『山本五十六』『戦艦大和ノ最期』『戦艦武蔵』など、日本海軍を描いた名作執筆の背景がわかるまたとない機会であった。
もう一つは、東京都の昭和館で開催された企画展「歴史探偵 半藤一利展」。こちらでは、文藝春秋の編集者および作家として数々の海軍関係の著作に関わった半藤の生涯が、数多くの貴重な資料とともに紹介された。半藤の遺稿・遺品はすでに同館に寄贈されており、今後の活用が期待される。
近代日本の陸海軍に関する実証研究は、第二次世界大戦後本格的に始まったが、当初から研究者が多数参入した陸軍研究と異なり、海軍研究を牽引したのは彼ら歴史作家たちであった。また、初期の海軍研究においては、野村実(名古屋工業大学教授)、池田清(東北大学名誉教授)ら海軍軍人出身の研究者の役割もきわめて大きかった。
現在日本海軍に対して一般に抱かれているイメージの多くは、彼らによってつくり上げられてきた。これらの著作では、海軍は政治的に脆弱な組織で、陸軍の暴走を抑止することができなかったと評価される傾向があった。
1960年代以降、海軍研究にも歴史学のトレーニングを受けた研究者が参入するようになったが、それらもこうした認識を前提とするものが多かった。
しかし、近年の海軍史研究は問題意識、研究手法ともに著しく多様化している。海軍と政治の関係に関して言えば、昭和期の良識派(英米派)に強い関心を寄せてきた従来の研究に対して、近年の研究は多様な組織やアクターに焦点を当て、海軍が政治に与えた影響をさまざまな視点から具体的に解明するようになっている。経済界、思想状況、地域社会、世論との関係を探った研究の進展も著しい。
最近『財部彪日記』『海軍大将嶋田繁太郎備忘録・日記』など重要史料の刊行が相次ぎ、『呉市史』など地域レベルからの新しい史実の掘り起こしも続いている。近代日本の軍事史研究において、長らく海軍研究は傍流的な位置にあったが、いまや陸軍研究と遜色ないレベルに達していると言える。
本書はこうした研究状況をふまえて、『財部彪日記』編さんに関わった中堅・若手の歴史研究者が、日本海軍についてさまざまな角度から考察した論文集である。
まず序章では、近年昭和期の海軍研究をリードしてきた手嶋泰伸氏がこれまでの研究動向を整理している。上述したとおり、最近の海軍研究はテーマが著しく多様化しており、全貌を捉えるのは容易ではない。学界でも包括的研究整理がなされる機会は少ないため、本稿の分析は大変貴重で有益である。
本編は「海軍を取り巻く社会の変化」「社会に及ぶ海軍の影響」という二部で構成され、9本の力のこもった論考を収録している。内容としては、シーメンス事件、ワシントン・ロンドン両海軍軍縮会議など大正・昭和初期の重要事件に即して、海軍と社会の関係を考察した論文が中心となっており、これらをふまえて兒玉州平氏が総括と展望を示した終章も配されている。
テーマは多岐にわたっているが、海軍と世論の関係についての分析がとくに興味深かった。小倉徳彦「ロンドン海軍軍縮会議と国内宣伝戦」は、会議開催にあたって日本海軍が大々的に国内向けの宣伝を行ない、世論の関心を喚起することには成功したものの、「対米7割要求」が貫徹できず、かつ海軍部内の意見が分裂すると、宣伝はむしろ各方面での分裂を助長する結果をもたらしたと指摘している。
木村美幸「1930年「神戸沖」観艦式と地域」は、これまであまり注目されてこなかった観艦式に関して、1930年の事例をもとに検討している。著者によれば、海軍側が宣伝を重視していたのに対して、兵庫県や神戸市では経済効果を期待しており、両者の認識はすれ違っていたという。こうした海軍と民間の関係が戦中や戦後にどう受け継がれていくのかなど、多くのことを考えさせる。
更新:04月11日 00:05