
1941年、日本の南進によって国際情勢は大きく動いた。対日政策をめぐり、当初は思惑が異なっていたイギリスとアメリカ。しかし、日本の行動をきっかけに両国の協力は強まり、やがて太平洋戦争へとつながっていく。本記事では、英米の外交戦略と日英対立の深まりをたどる。
※本稿は、波多野澄雄著『なぜ日本は米英中ソと戦ったのか』(PHP新書)から一部を抜粋・編集したものです。
三国同盟の成立と日本軍の北部仏印進駐以後、英米は対日統一戦線の形成に向けて努力を重ねた。軍事レベルでは、41年1月から英米参謀会談が開かれ、その成果を米英蘭参謀協定(ADB-1)として結実させていた。この協定で樹立された軍事戦略の原則は、ドイツ打倒が第一であり、戦争の主正面は大西洋である、したがって極東では「戦略的守勢」をとる、というものであった。
極東における戦略的守勢とはいったい何を意味するのか、英米の思惑は異なっていた。とくに、シンガポールの戦略的意義についての両者の評価は全く異なっていた。
極東防衛の要衝としてシンガポールを重視するイギリスは、アメリカ参戦の場合に米艦隊のシンガポール派遣を要請したが、同意は得られなかった。また、日本が武力で南進した場合に、イギリスやオランダを支援してアメリカが直ちに参戦する、という確約も得られなかった。4月にもオランダやオーストラリアの軍事代表を交えて具体的な対日戦略が協議されるが、結局、極東における統合戦略は樹立できなかった。
日本が武力南進したとしても、アメリカの支援を期待できないというイギリスの不安感は日蘭会商(通商交渉)の決裂でますます高まり、アメリカに対する猜疑心につながっていた。41年4月中旬から公式に始まった日米交渉に、この交渉はイギリスを犠牲にした日米間の裏取り引きの始まりではないかという疑惑さえイギリス政府部内に生まれ、ハリファックス駐米大使(前外相)が弁明に苦慮するほどであった。
こうしたイギリスの対米不信感を一挙に解消したのが、日本軍の南部仏印進駐に対するアメリカの全面禁輸と在米日本資産の凍結であった。ほとんど事前協議のないまま発動された強硬な対日経済措置に、イギリスは対日戦を覚悟で経済制裁に同調するか否か、という決断を迫られた。軍部はアメリカの軍事的支援が確約されないときに安易に同調すべきではない、と消極論で一貫していた。
しかし、アンソニー・イーデン外相らは、対日戦争は遅かれ早かれ免れないものと判断し、その際、アメリカの支援を取りつけるうえでも同調すべきであることを強調して軍部を制した。こうして8月初旬、イギリスは、アメリカの対日政策に全面的に協力することを決定し、在英日本資産の凍結、日英通商航海条約の廃棄を通告した。イギリスは以後、対日政策をほぼ全面的にアメリカに委ね、日米交渉にも情報は求めるものの、介入を避けた。
1941年8月10日、大西洋会議に臨むローズヴェルト(左)とチャーチル
41年8月中旬、ローズヴェルトとチャーチルの間で大西洋会談が開かれる。会談後に発表された大西洋憲章は、領土不拡張、主権・領土の尊重、民族自決(脱植民地化)、通商の自由などを謳い、のちに連合国の戦争目的となる。チャーチルは、民族自決の原則などに批判的であり、のちに、イギリスの自治領や植民地には適用されない、と英議会で宣言することになる。とはいえ大西洋憲章は、とくにアメリカのアジア太平洋地域の戦後構想の立案に当たって大きな影響を及ぼすことになる。
またチャーチルは、共同宣言の発表によって、アメリカを参戦の立場に拘束できると考えて会談に応じた。しかしチャーチルは、日本の武力南進の場合にアメリカは参戦するという言質を得ることはできなかった。
日米交渉が最後の段階に差しかかった11月20日、ハル国務長官は、暫定的な妥協案を関係国に諮った。チャーチルは、アメリカの過度な対日譲歩を警戒し、より厳しい対案が必要と述べた。日米の妥協によって中国が戦意を失い、対日戦に重大な影響を及ぼすことを心配した。日本の侵略を一時的に食い止めたとしても、その代償はあまりにも大きかった。こうしてチャーチルは暫定協定案を拒否し、ハル・ノートの提出を後押しした。
チャーチルは、戦争を回避するのではなく、アジアでもヨーロッパでも、アメリカが必ずイギリスを支持すると確約させることを戦時外交の優先目標としていた。ローズヴェルトからは、そうした確約は最後まで得られなかったが、幸か不幸か、日本軍の真珠湾攻撃はアメリカの対日・対独参戦を同時に実現させ、チャーチルの不安を一挙に解消させて、軍事的には英米の一体化が実現することになった。その一方、英領マレーやタイなどは日本軍の奇襲攻撃にさらされ、チャーチルは新たな試練に直面することになる。
細谷千博氏は、「太平洋戦争とは日英戦争ではなかったのか」と題する講演で、こう述べている(要旨)
中国問題についての日米間の対立は、プログラムと原則とをめぐる対立であり、実質的な利益をめぐっての対立という点では、むしろ日英の方がより深刻だった。日英間では、中国での実質的な利益の調整を図るという面では、利益と利益との関係であるから、妥協の余地があるが、日米間ではプログラムと原則との対立で、妥協点の発見は難しい。日本が東亜新秩序を外交の旗印として揚子江以南でのイギリスの権益の排除に取りかかると、妥協の余地はなくなり、日英間での戦争は不可避の形勢になるーー。
たしかに、日中戦争をいかに収拾するか、という観点では日英は妥協の余地が多々あった。たとえば38年9月、宇垣外相との会談でクレーギー大使は、「われわれは協力とはギブ・アンド・テイクと理解しているが、日本の在華当局は全てを取りあげて何もあたえないのが協力だと考えているようだ」と皮肉って日本側のかたくなな態度を批判している。ここにもイギリスの交渉姿勢が示されている。
いったいどの時点で、日英は「妥協の余地」がなくなったのであろうか。それを見極めることは難しい。日中戦争の収拾をめぐって対立が深刻化するにつれ、アメリカに和戦の最終判断を委ねるようになっていったからである。したがって、対日戦争の決断も決定もなされず、極東における帝国としての戦争計画もとくに作成されなかった。
その一方、日本側では日中戦争が始まる頃には、陸海軍の「年度作戦計画」にはイギリスが想定敵国の一つに加わり、「敵対勢力」の一つに格上げされる。しかし、具体的な「対英作戦計画」が作成されるのは40年夏からであり、想定された戦争の舞台は、戦略資源地帯である東南アジアであった。南方への攻撃拠点とみなされたシンガポールやマレーが攻撃対象とされた。その際、日本軍としては対英(蘭)戦争を覚悟しても、対米戦争は避けたかったのである。
更新:08月07日 00:05