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「日本を満洲事変前に戻す」 日米の開戦が避けられなかった決定的な理由

2026年08月05日 公開

波多野澄雄(筑波大学名誉教授)

アメリカと中国の国旗

1941年、日本とアメリカの対立は決定的な局面を迎えていた。しかし、開戦直前まで両国の間では交渉が続けられ、戦争回避の可能性も模索されていた。中国問題、南進政策、経済制裁…複雑に絡み合う利害の中で、なぜ外交は破綻し、両国は戦争への道を進んだのか。その真相にせまる。

※本稿は、波多野澄雄著『なぜ日本は米英中ソと戦ったのか』(PHP新書)から一部を抜粋・編集したものです。

 

日米交渉と日中戦争の行き詰まり

1940年末、日本の日中戦争の解決方策は行き詰まっていた。対中和平工作(桐工作)は挫折し、汪政権の承認を余儀なくされ、援蔣遮断措置(仏印ルートやビルマ・ルートの遮断など)も効果は見られなかった。こうしたなかで、最後に残された外交的手段はアメリカによる日中間の和平斡旋を期待して直接、対米交渉に臨むことであった。

41年4月中旬、アメリカから届いた「日米了解案」(民間人を含む日米の関係者が両国政府の了解を得て作成)は、三国同盟の実質的な無力化を求める一方、一定の条件のもとでの事変の和平斡旋や東南アジアの資源獲得に対する日米協力を掲げ、日本側は政府も軍部もこれを歓迎した。ただし、了解案は和平斡旋の前提として、「ハル四原則」(領土保全と主権尊重、内政不干渉、機会均等、平和的手段によらざる限り太平洋の現状不変更)の受諾を求めていた。

だが、日ソ中立条約という外交的成果をもって帰国した松岡外相は、日中間の和平条件の明確化という観点から日米了解案を大幅に修正することになる。松岡の意見を反映した日本側の対案(5月12日対米提案)の日中戦争に関する部分は、アメリカは、40年11月に汪兆銘政権との間で締結した日華基本条約を「了承」したうえで、蔣政権に対して和平を勧告すべし、と要求していた。  

これに対するアメリカの回答(6月21日米国案)は、汪政権の否認、満洲の中国への復帰、日本軍の無条件撤兵、防共駐兵の否認、通商上の無差別待遇などの要求を列挙し、日本の提案をほとんど否認していた。その後の交渉においてもアメリカはこれらの条件を後退させることはなかった。この回答に接した松岡は日本を「弱国・属国扱いするもの」と激怒し、交渉打ち切りを主張するが、近衛首相は松岡の更迭によって交渉の継続を図った。

 

独ソ戦争と日本の進路

41年6月22日、ドイツは不可侵条約を破りソ連に侵攻。この独ソ戦争の勃発は、ソ連が明確に反枢軸陣営の一員となったことを意味し、松岡外相の抱く日独伊ソの「四国同盟」構想を破綻させるものであった。アメリカは対ソ援助をさらに強化させる。

日本では陸軍部内に「北方戦争論」が浮上し、参謀本部や松岡外相はドイツのソ連攻撃に呼応した対ソ攻撃を主張した。南進論との論争の末、国策としては「南北併進」に落ち着いたが、対ソ攻撃(北方戦争)は独ソ戦争がドイツに有利に展開した場合とされた。その準備のため、関東軍特種演習(関特演)の名目で関東軍が増強されるものの、シベリアの気候的条件に加え、独ソ戦が早期に終結する見込みはなくなり、8月初旬に中止される(翌年まで延期)。

一方、南進政策は、仏印との軍事的結合を強化するとの既定方針に基づき、7月下旬、南部仏印進駐が断行される。資源供給のための交渉が不調に終わった蘭印を威圧するという効果や、南部仏印に航空基地を設定するという目的も含まれていた。

南部仏印進駐に対し、アメリカは在米日本資産の凍結と石油の全面禁輸という最高度の経済制裁で応え、英蘭もこれに倣ならった。しかし、日米ともに戦争を決意したわけではなかった。アメリカの最大の脅威は依然としてドイツであり、米独関係は極度に悪化し、6月には独伊の在米資産はすでに凍結されていた。アメリカの対日強硬措置は、戦わずして日本を屈服させ、さらなる南進を抑止するためであった。

他方、日本側からすれば、最高度の経済制裁はABCD包囲陣が国防上耐え難いものとなったことを意味していたが、政府・軍部の指導者はなおも対米戦の回避の可能性を追求した。その一つが、近衛首相とローズヴェルト大統領との直接会談構想であった。

この頂上会談のためにあらためて用意された対米提案(9月25日案)は、通商上の門戸開放・機会均等については譲歩し、アジア太平洋における経済活動の自由を原則として認める方針を示していたが、駐兵について譲歩することはなかった。

 

東條内閣と日米交渉の決裂

東條英機東條英機

10月2日のアメリカの回答(ハル覚書)は、日本の提案を否認するとともに、首脳会談についても、その前提として「根本的な諸問題について討議の進展」が必要である、として否定的であった。それでも近衛首相は戦争回避の立場から、部分的撤兵案によって妥結に持ち込もうとするが、陸軍の立場を代表する東條英機陸相は撤兵に強硬に反対して内閣は崩壊する。

10月18日に成立した東條内閣は、天皇の指示を受け、「白紙」の立場から非戦の可能性を追求した。11月5日の御前会議は、11月末を限度に対米交渉と作戦準備を併進させ、妥結しない場合の武力発動は12月初旬と決定した。

同時に、最後の交渉案として「甲案」「乙案」が了承された。「乙案」は、アメリカの対日石油供給の約束と引き換えに、南部仏印の日本軍を北部仏印に移駐させ、当面の危機を回避しようとする暫定協定案であり、11月20日に米政府に示される。

アメリカ政府でも暫定協定案の検討が進み、「乙案」に近い内容の暫定協定案が用意され、英蘭と中国(重慶政権)に内示される。しかし、日本との苦しい戦いを強いられていた蔣介石の期待はアメリカの対日参戦であった。暫定協定による日米の妥協は、中国からみれば、アメリカは中国の犠牲において日本を宥和しているのであった。イギリスもまた、アメリカの中国問題における譲歩が中国政府や国民の士気に及ぼす影響を恐れていた。

こうしてハル長官は、「乙案」の拒否とともに、暫定協定案も取り下げ、11月26日、ハル・ノートという形で対日回答がなされた。ハル・ノートは中国全土および仏印全土からの撤兵、重慶政権以外のすべての政権の否認、という要求を含み、日本をいわば満洲事変以前の状態に引き戻すに等しかった。これを事実上の最後通牒と受け止めた日本政府は12月1日、御前会議において最終的に対米英蘭開戦を決定した。

プロフィール

波多野澄雄(はたの・すみお)

筑波大学名誉教授

1947年、岐阜県生まれ。77年、慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程修了、博士(法学)。防衛庁防衛研修所戦史部研究員、筑波大学教授、国立公文書館アジア歴史資料センター長、外務省『日本外交文書』編纂委員長などを歴任。著書に『太平洋戦争とアジア外交』(東京大学出版会)、『日本の歴史問題』『日本終戦史1944-1945』(いずれも中公新書)、『幕僚たちの真珠湾』『広田弘毅』(いずれも吉川弘文館)、『決定版 大東亜戦争(上・下)』(共著、新潮新書)など。

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