
米中をはじめとする文明的大国が自己主張を強め、同時にデジタル化やビッグデータを軸にした技術革新が起きているなど、私たちはいま劇的な世界の変化を経験しています。このような状況下では、環境変化の圧力や不確実性に翻弄されるばかりでは十分ではなく、日本のあり様や世界のなかでの位置づけを問い直していく必要があるはずです。
「日本文明研究会(委員:河野有理、藤本龍児、三宅香帆)」では、日本の文明的な性格がいかなるものかを、思想・宗教、文化文芸から家族、組織原理、政治、経済社会にいたるまで多角的な視点で検討し、顕在知として表出していくことをめざします。近代の日本においてリベラル・デモクラシーの政治制度が採用され、定着するに至った、その文明史的な背景について、苅部直氏が4回にわたって概観します。(構成:藤橋絵美子)
「日本」という国土の一体性の意識と、言語・文化の共有の広がり。そうした条件の上で主権国家の概念がすんなりと受容され、日本の国家形成(state-building)は早期に進みました。また、内と外の意識の滲透、言語の共有が進んでいたことを考えると、その時にすでにナショナル・アイデンティティが確立していたと評価するとも可能でしょう。
しかし、この事態に関して「日本は前近代から国民国家として成立していた」と早合点してはいけません。極端に言えば、先にふれたように、18世紀ごろにはすでに国家形成が済んでいたと強引に評価することも不可能ではありませんが、そうしてできあがった空間の住人たちが、ナショナリズムと呼べるような感情を共有するようになるのは、早くても1880年代、明治時代の中ごろです。
ナショナリズムを論じるさいに、1980年代から定番として引用されている古典的な著作、文化人類学者ベネディクト・アンダーソンによる『想像の共同体』(原著1983年、増補版の翻訳は白石隆・白石さや訳『定本 想像の共同体』書籍工房早山、2007年)で、次のように記しています。
「国民は一つの共同体として想像される。国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同志愛(comradeship)として心に想い描かれるからである。そして結局のところ、この同胞愛(fraternity)の故に、過去二世紀にわたり、数千、数百万の人々が、かくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいったのである」(同書第1章「序」)。
つまり、単に同じ「日本」という空間に住み、共通の日本語を用いているというだけでは、ナショナリズムが成立したとは言えません。徳川末期には平田篤胤系の国学者の著作が、日本人はみな天皇や公方と同じ血統に属する「神胤」だという説明を展開していましたが、そうした言説がある程度流布していたとしても、「あるいはむしろみずからすすんで死んでいった」というほどの強い紐帯を、広い範囲に生み出すことはなかったでしょう。
「同志愛(comradeship)」は共産主義の革命運動組織を思わせる単語で、それほどに堅い結束力をもち、メンバーが全体の活動に自分の命を捧げるほどに強い愛着を示すことで、初めてナショナリズムと呼ぶに値する感情となります。
徳川末期に「尊王攘夷」運動に奔走した武士や大名は、そうしたナショナリズムに近い心情を抱いていたかもしれません。しかし、日本社会の大多数の人々はまったくそれを共有していなかったことを示す、おもしろい逸話があります。英国の作家、ジャーナリストだったサミュエル・モスマンがその日本紀行の著書に記している話ですが、元治元年8月(1864年9月)、英国・フランス・アメリカ・オランダの四か国からなる連合艦隊が、長州藩に賠償を求めて来航し、下関に砲撃を加え、上陸して長州藩の砲台を占拠、破壊する事件がありました。
しかし下関の対岸にある豊前藩は長州藩と仲が悪かったので、その砲台は沈黙したまま。それどころか、長州藩が砲撃されるようすを、人々が大喜びで見物していたのでした(岡義武『明治政治史』上巻、岩波文庫、2019年、83-85頁)。
他の藩の人間が外国から攻撃され、苦しんでいるのだから、自分も連帯して一緒に戦おう。そういう「同志愛」「同胞愛」が、この時代の日本人には乏しかった証拠でしょう。さまざまな村や町の境界内、そして身分の上下の壁の間に閉じこめられ、それを越えるような「国民」の連帯感など、ほとんどの人が抱いていなかったのが実状でした。
福澤諭吉もまた『文明論之概略』(1875・明治8年)の第5章で、「王室の威光」すなわち京都の天皇に対する人々の尊崇が「王制一新」と「廃藩置県」をもたらした、という見解を否定しています。福澤によれば、社会に広まっていたのはむしろ、「門閥を厭ふの心」すなわち身分制度に対する不満でした。国学者・儒学者の「尊王論」も、そうした不満が形を変えて現れたものにすぎず、それが外交問題をきっかけにして「攘夷論」に変じて激化した結果、徳川政権の瓦解という「革命」に至ったと福澤は説明しています。
同時代の人々の実感としては、この「革命」の政治変動を衝き動かした感情は、決してナショナリズムではなかったのでした。
モスマンが伝える長州藩と豊前藩の逸話は、吉野作造が大正時代にデモクラシーの意義を説いた有名な論文「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」(『中央公論』1916年1月号)で言及したものでもありますが、吉野はまた論文「明治維新の解釈」(『婦人公論』1927年12月号)のなかで、日本人が伝統的に「朝廷尊崇」「勤王の志」を厚く保っていたことが「王政維新」を可能にしたという見解を、きびしく批判しています。
徳川時代の武士の「忠義」の対象は、自分が仕えている大名であって、皇室ではなかった。明治時代に入っても明治20年頃までは、明治政府に対する不満を述べ、「薩長嫌厭の情」を社会に煽る人物がいたるところにいた。これが、明治20年ごろからしだいに変わりはじめ、日清戦争のさいには「国民的精神の統一」がすでに確立していることが示された(『吉野作造選集』第11巻、岩波書店、1995年、217-221頁)。
日本において、ナショナリズムはようやく明治20年代になって広い範囲に広まったのです。
では、自分たちが一体の「国民」だという意識が育ったのはなぜか。
日清戦争の前の時代に対外的な危機感が高まり、あえて踏み切った戦争で勝利したので、広い範囲の人々がおたがいを「同胞」「同志」と見なす結束を実感するようになった。そういう説明は簡単につきますが、しかし吉野作造が、明治20年頃からそうした意識が生まれ始めたと言っていることが気になります。このことについては、かつて、加藤秀俊・前田愛『明治メディア考』(中公文庫、1983年)が、そのころ鉄道網の整備が全国で急速に進み、文化の首都への一極集中が始まったことに注目していました。また、初等教育における「修身」科目の影響も無視することはできないでしょう。
しかし、情報の流れや教育の普及だけで、国家を支える強い紐帯の意識ができるかどうかは疑問です。むしろ、人々が全国から実際に集まり、一国の政治を支える代議制のしくみが、広い「同胞」意識の形成に役立ったということはないでしょうか。もちろん、1890(明治23)年に帝国議会が開設されたときは、衆議院はまだ制限選挙制ですから、下層の国民までもが国政参加の意識を持ったということはないでしょう。
しかし、議員になる政治家に限らず、ある程度広い幅をもった社会層の人々が、全国でいっせいに活動する機会が、ここで初めて生まれたのです。そのことを考えれば、選挙による代議制システムの確立こそが、日本人が「国民」としておのれを意識することを可能にした。そんな風に考えることもできるように思います。
自由民権運動の思想的指導者であった中江兆民が、その当時に提唱していた政治構想について、藤川剛司「民に代わり議するために」(『国家学会雑誌』136巻11・12号、2023年)という論文が解明を試みています。選挙に立候補する人だけではなく、選挙民たちによる討論すなわち「公論」の場を全国に展開し、そうした「公論」のネットワークによって支えられた政党が、国会での「公論」を形成する主体になるという構想。兆民の考えでは、そこでの議論は各人が自己の利益を超える「公共心」を育んでゆく場となるはずのものでした。
もちろん、帝国議会がそうした理想的な対話の場になることは、現実にはありませんでした。政治家たちの努力と紆余曲折を経て、1930年代ごろに確立した、地域の利益政治と政党政治との結合が、全国の秩序を一つに結ぶようになります(池田真歩「地方社会と明治憲法体制」、前掲『アステイオン』90号を参照)。
いずれにせよ、広い範囲の人々を国家全体の公共秩序に組み込んでいく有力な回路として、代議制が機能したとは言えるように思います。
先にふれたように、日本人の議会に対する信頼が高いのも、「国民」意識の形成に代表制が果たした役割の大きさのゆえかもしれません。しかし他面で、政党もしくは政治家に対する信頼は低い。漠然とした直接民主政への憧れは、このギャップを埋める方向には働かず、むしろ大きくしているように思えます。これが進むと、せっかく継続してきた議会への信頼も怪しくなるでしょう。それはリベラル・デモクラシーにとっては根本的な危機です。
それならば、どうすればいいのか。
一つ挙げるとすれば、現在、政治家と一般の人との交流経路があまりにも限られていることが問題だと思います。政治家は特定支援者に顔を合わせるだけで精いっぱいで、一般の人と接する機会が少ない。これでは一般の人が政治家を知る機会も、政治や政策に興味を持つ機会も生まれないでしょう。その点を考えると、参政党や国民民主党のような新興政党に比べて、既成の大政党がSNSの活用に出遅れているのは、はたしてどうなのかと思います。
また、公職選挙法に見られる、戸別訪問の禁止のような厳しい選挙規制も、そろそろ見なおしたほうがいいのではないでしょうか。選挙カーが名前を連呼して走っているだけの選挙運動では、政治参加に魅力を感じろという方が無理ですよね。
これはあくまでも一つのアプローチに過ぎませんが、こうした改善を繰り返し続けることで議会制民主主義に対する実感と信頼を取り戻しながら、維持・継続していくべきだと思います。
本稿の冒頭でもふれたように、現代人はリベラル・デモクラシーの「危機」とやたらに言い過ぎなのではないでしょうか。たとえば19世紀の西ヨーロッパ諸国は、激しい階級対立があっても、何とかそれを乗り越えて、リベラル・デモクラシーを発展させてきました。リベラル・デモクラシーは、危機に陥っても回復する能力がある。
これに対して独裁制の国家は、指導者が死んでしまえば、混沌状態に陥りかねません。さまざまな利害や価値の対立を前提として、それらが共存するためのシステムとしては、やはりリベラル・デモクラシーが望ましいように思うのです。
かつてウィンストン・チャーチル「民主主義は最悪の政治形態である。ほかに試みられたあらゆる形態を除けば」と言いました。その言葉のとおり、決して完全ではありませんが、最良の政治制度。特に日本の場合は100年以上、議会制を維持しながらここまでやってきた歴史がある。ゆえに今後も、これをみずからの制度として、改善を繰り返しながら、運営し続けていけばいいのではないでしょうか。
更新:02月24日 00:05