
ウィンストン・チャーチルとマーガレット・サッチャー。現下の「大乱の時代」における危機の指導者の要諦を考えるうえで、歴史上の二人の英国首相から学ぶべき点は多い。
京都大学名誉教授の中西輝政氏と、前駐米大使の冨田浩司氏が、チャーチルとサッチャーの手腕から、政治リーダーのあり方について議論する。
※本稿は、『Voice』2025年12月号より抜粋・編集した内容をお届けします。
【中西】この「大乱の時代」における危機の指導者のあり方を考えるうえで歴史にヒントを求めるならば、冨田先生がそれぞれ出色の評伝を発表されている、イギリスのウィンストン・チャーチルとマーガレット・サッチャーを振り返ることに大きな意味があるはずです。チャーチルについて、冨田先生は「第二次世界大戦でもっともヴィジブルなリーダーだった」と評価されていますが、いま彼の手腕から何を学ぶべきと考えますか。
【冨田】まず大前提として、指導者論の難しさは、政治指導者はその時代の要請に応えることが責務である点にあります。チャーチルの指導力が普遍的で、いつの時代にも通用するかと言えば、そうとは限らない。チャーチルは、やはり「危機の時代」においてこそ優れた指導者であったと言えるでしょう。
チャーチルの手腕から危機の指導者の要諦を考えると、一つは「コミュニケーション能力」です。チャーチルが首相に就任したのは1940年5月ですが、それまでは戦局の中心は東部戦線であり、イギリス国内では Phoney War(まやかしの戦争)という表現も用いられていました。
遠隔の地での戦争は自分たちには関係ないとの声もあるなかで、西部戦線の電撃戦が始まり、瞬く間に国家存続の危機に直面する。そのためチャーチルがまず取り組まなければならなかったのが、混乱する国民に戦争の目的を理解させて結束させることでした。この点、彼の生来の「コミュニケーション能力」が死活的に重要であった。
二つめが、私は「行動志向の実務主義」と表現しているのですが、チャーチルは弁舌に優れているばかりでなく、じつは外務大臣以外の主要ポストはいずれも務めた経験があり、実務に関する深い知識をもっていた。そうした経験を武器にして、彼は戦争努力のあらゆる側面に口を出し、時には下僚に煙たがられるときもありましたが、政府全体が行動する前向きのエネルギーを生み出したのです。
危機に際しては、何かをやって失敗するよりも、何もやらなくて失敗するコストのほうがはるかに大きい。不作為は敗北主義につながります。
最後の三つめが「歴史観」で、チャーチルが危機的な状況を迎えていたイギリスをいかにまとめたかと言えば、大英帝国の栄光の歴史をリマインドすることで国民を一致団結させたのです。第二次世界大戦の最中、あれだけの歴史観をもつ政治家が指導者であったことは、国家にとってまさに僥倖であったと思います。
【中西】最後にお話しいただいた「歴史観」こそ、とくにチャーチルという指導者の真骨頂ではないでしょうか。私はチャーチルを、イギリスの貴族制が生み出した最良の結晶のような人物として評価しています。先祖である初代マールバラ公が17世紀の名誉革命とその定着に非常に大きな役割を果たした人物で、その直系の子孫としてチャーチルは自分のことを、大英帝国の歴史とともに歩んできた系譜につながる人間であるとするアイデンティティを自負していました。
ただし皮肉なことに、それだけ強固に連続性を核とする歴史観をもっていたチャーチルに課せられた指導者としての使命は、大英帝国の歴史に幕を下ろすことでした。それでも彼は、「自分は帝国の葬儀委員長を務めるために首相を引き受けたのではない」と啖呵を切っています。
チャーチルは帝国こそが人類に文明をもたらす役割を担うと考えており、実際、大英帝国の残る国力のすべてを傾けてでも、自由で文明的な世界秩序を守ろうとして死力を尽くし、ナチス・ドイツと戦いました。結果として刀折れ矢尽きるとしても、大英帝国の意義は歴史的に残る。チャーチルはそう考えればこそ、断じてアドルフ・ヒトラーとは和平交渉をせず、覚悟と矜持を胸にナチス・ドイツに強硬な姿勢をとり続け、それがやがてアメリカ人にも伝わり、アメリカの参戦へとつながるのです。
そんなチャーチルという人物を、おそらく20世紀における最大のリーダーだと評しても、決して過大評価ではないでしょう。彼がいればこそ、大英帝国は覇権国としての使命を全うしたし、それ以上にナチス・ドイツに徹底抗戦して人類文明を守った。それでイギリスは帝国を失ったけれども、その高潔な姿はトランプ大統領のアメリカとはあまりに対照的だと言えるでしょう。
【冨田】チャーチルをめぐって印象深いことをもう一つお話しすると、それまでの政治家人生で失敗や挫折を繰り返していたにもかかわらず、「この局面ではチャーチルしかいない」と、第二次世界大戦に際しては国王を含め皆が彼を首相に指名する決断を下した点です。イギリスという国の懐の深さを表すとともに、政治家や指導者に何を求めるかという議論にもつながる挿話ではないでしょうか。日本では先般、自民党総裁選が行なわれましたが、メディアで語られていた人物評には、指導者に求められる資質とはあまり関係のないゴシップ的な議論も多かった。
【中西】たしかに、チャーチルは周囲からはほとんど好かれていなかったし、ぶっきらぼうで、いわゆる「付き合いの悪い男」という評すらありました。
【冨田】彼が自民党の総裁選を戦えば、絶対に当選しないでしょうね。しかし当時のイギリスでは、もう一人の首相候補だったエドワード・ウッド外相はみずから身を退いたし、追いやられる立場のネヴィル・チェンバレン前首相もチャーチルを推薦した。そうして、もっとも慎重だった国王も最終的には決断を下したのです。どのような人物が指導者に選ばれるかは、その国や時代を映す鏡であり、そうしたイギリスという国のあり方にも目を向ける必要があるでしょう。
【中西】きわめて重要なご指摘です。指導者論を語るときには、リーダーシップだけではなく「フォロワーシップ」にも目を向けなければいけません。1930年代のイギリスでは、チャーチルはあらゆる面で批判され、政界でも長期にわたって孤立状態でした。ところが、1940年、イギリス人は自由世界を守るために、こぞってチャーチルを選んだ。社会主義者でさえも、いまであれば「極右政治家」と表現されるかもしれないチャーチルを受け入れたのです。
いまお話ししたような国民のフォロワーシップは、イギリスという国だけが発揮できるポテンシャルではありません。危機の指導者を見出し、それを支えるには何が必要かを、われわれ一人ひとりがもっと考えねばなりません。
ところが現在の日本では、「指導者を盛り立てる」ことが国民の役割だとは思われていない。だからこそ、どの選挙候補者がよいか、自分を高みに置いて品定めするような議論ばかりが行なわれているわけです。それでは民主主義国家の有権者としては、未熟な政治観であると慨嘆せざるを得ない。目の前の課題を解決してくれる指導者を求めるばかりでなく、フォロワーである自分たちも現下の危機を「わがこと」として認識して、指導者を盛り立てなければいけません。
【冨田】続いてサッチャーについて考えると、チャーチルとはかなり異なるタイプの指導者です。中西先生はサッチャーについてはどう評価されていますか。
【中西】サッチャーが教育科学相時代、ケンブリッジ大学の学生たちをはじめ国民は「ミセス・サッチャー、ミルク・スナッチャー(サッチャーはミルク泥棒)」と叫び、連日抗議デモが行なわれました。福祉予算を削るために牛乳への補助金を減らしたことに対する非難の声で、それはもうたいへんな「憎まれ役」だった。実際、数年後に首相になるまでの過程は逆境の連続でした。それでも彼女はその苦難の道を耐えながら歩み続け、やがて国民からの非難の大合唱は止むのです。
サッチャーが首相の座に就いた1970年代末のイギリスは「イギリス病の極み」と揶揄されるほど経済がどん底まで停滞していましたが、あれほどの逆境に捨て身で立ち向かったサッチャーの姿勢に、私はまず指導者としての稀有な資質があったと評価しています。
もう一つここで紹介したいのが、アンドレ・シーグフリードというフランスの評論家が論じたイギリス人の国民性についてです。フランス人から見ると、イギリス人はティネイシャス(tenacious)、つまりたいへんな「粘り強さ」が際立ったキャラクターとしてとくに目立つらしい。また、在英のアメリカ人やカナダ人の友人によれば、とくにイギリスの女性はウィルフル(wilful、一徹)だと言います。
たしかにイギリス史を振り返ると、プロテスタントを多数処刑して「ブラディ・メアリー」と呼ばれたメアリー1世、たった一国でスペイン無敵艦隊と戦い撃破した、あのエリザベス1世、名誉革命で夫のウィリアム3世とともに立憲君主制を築いたメアリー2世と妹のアン、そして頑固一徹のヴィクトリア女王とわれわれも知るエリザベス2世と、いずれもじつにティネイシャスでウィルフルな女王たちがイギリス史を彩ってきました。
じつのところ、いま列挙した女王のうち、エリザベス1世は知性を兼ね備えた人物でしたが、それ以外は皆、知的に際立っていたとは言えないかもしれない。ただしそれはもしかしたら、ティネイシャスやウィルフルと背中合わせの関係で、たとえばイギリスの立憲君主制が固く定着したのは、ヴィクトリア女王がそれを強い信念として一度も揺らぐことなく推し進めたからでした。
ここでサッチャーに話を戻すと、彼女を評価するうえでも、イギリス人女性の国民性におけるこうした際立つ特性が、イギリスの女性リーダーとしての歴史的伝統として発露したと言えるのではないでしょうか。彼女の信念の固さは、あるいはチャーチルを凌いでいる。だからこそサッチャーは、当初の国民の強い抵抗を押し切って、歴史的な改革を成し遂げられたのだと思います。しかし他方で、最後に保守党を二分して失脚する隘路にはまったのは、彼女のこうしたパーソナリティの負の面が表出したのでしょう。
【冨田】指導者とは危機であれ平時であれ、大前提としてビジョンとコンピタンスの二つを備えているべきだというのが私の考えです。人びとを引っ張ろうとするならば、どこへ向かおうとしているのかビジョンを示す必要があるし、それを実現するためのコンピタンス、言うなれば実務的な能力が求められる。
サッチャーはチャーチルとは異なり、豊富な実務経験があるわけではなかった。しかし、政府が高度に巨大化・専門化した時代では、ある意味では大企業を経営するのと同じ能力が求められますが、サッチャーはその面で優れていた。イギリスの内閣制はprimus inter pares(同輩中の首席)という言葉があるように、首相は全体のまとめ役という立ち位置ですが、サッチャーは直属の政策ユニットを設けたり、首相補佐官に権限を集中させたりして、自分の意志を貫徹する仕組みをつくりました。
ビジョンとコンピタンスの両立ということで、私が思い出すのが安倍晋三元首相です。第一次政権のときには非常に立派なビジョンをもっておられたものの、それを実現するための体制が不十分でした。そこで、その後の在野の時代、政権に戻ったときに自分のビジョンを実現するためにどうすればいいか、徹底的にお考えになったのではないでしょうか。だからこそ第二次政権では、いかに政府という組織を動かすかに腐心され、結果として成功につなげられたのだと思います。
【中西】サッチャーについて一つ、まだ私のなかでも答えが出ていないのが1982年のフォークランド紛争で、彼女はなぜ国内外から停戦を求める強い圧力を受けながら、強硬路線をとり続けられたのか。アメリカが支持するかどうかは不透明で、また財政を著しく圧迫することも明らかでしたから、当時の状況としてはかなり危ない賭けでした。
【冨田】サッチャーは軍事に関しては素人で、アルゼンチン侵攻の報せが届いた段階では、派遣艦隊がフォークランド島に到着するまで何日かかるかも知らなかったというエピソードがあります。それでも、島を奪還するために軍事作戦を行なうと決断するまでは非常に速かった。彼女の決断力の成せる業と言えますが、同時にその当時、サッチャー政権の支持率はひどく低迷していて、ここでしくじれば政権が崩壊するという心理的圧力もあった。結果的にフォークランド紛争の勝利によって安定した政権基盤をつくることができたので、まさに危険な賭けに勝利したと言えるでしょう。
【中西】イギリスの政治史にはleap in the dark(闇のなかに飛び込む、無謀な賭け)という言葉があって、これは19世紀のディズレーリ政権が保守党なのに労働者に選挙権を与える第二次選挙法改正に踏み切ったときに使われたフレーズでした。言うなれば、あの「アニマル・スピリット」があればこそ、サッチャーはフォークランド紛争に踏み切れたのかもしれません。ビジョンとコンピタンスとともに、これはイギリスの歴史に残る指導者たちに共通する資質だと私は思いますし、もちろんチャーチルもきわめつきの「アニマル・スピリット」の持ち主でした。
【冨田】高市早苗首相は、尊敬する政治家としてサッチャーを挙げておられますが、彼女の信念の強さに感銘
を受けておられるのだと推察します。他方、政治指導者として成功するためには、信念とそれを結果に結びつける態勢づくりの両方が必要で、サッチャーですらこうした態勢を整えるために相当の苦労があった。自民党を取り巻く環境には厳しいものがありますが、高市首相におかれても、現下の難局に対して粘り強く取り組まれることが大事でしょう。
ちなみにサッチャーは、文字どおりの仕事の虫で、休暇に行っても、二日目には仕事が気になり、あちこちに電話をかけまわったという逸話があります。彼女の辞書には、「ワーク・ライフ・バランス」という言葉はなかったようです。
【中西】今回、高市氏がこの国の舵取りをすることになったのは、ちょうどサッチャーが1979年のあの時点で首相になったのと、どこか符合する歴史の巡り合わせを感じます。一つは、当時のイギリスは急性、いまの日本は慢性の違いはあっても、随所に国の衰退が進行し、もはや万策尽きた正念場を迎えたそのときに政治が出した結論が、深い救国の想いに動かされた明確な保守のリーダーが「初の女性首相」として登場したという事実でしょう。
サッチャーが遺した言葉に、「殿方は振り返るでしょうが、(私たち)レディは決してそうしません」というものがあったと記憶しています。みずからの不退転の信念を語ったものでしょう。高市氏も今後、自民党内の「穏健保守」を自称する男性幹部の包囲網に苦労することと思います。そのときはぜひとも、この言葉を思い起こすべきでしょう。
もう一つ、高市氏とサッチャーとの類似点を申し上げれば、何といっても政策上の卓越した実務能力です。その背後には、たしかに「仕事中毒」と噂されるほどの研鑽があるのでしょうが、日本の総理の職はそれほど甘いものではありません。生命あっての政策実現なのだということも、ぜひ念頭に置いていただきたいと思います。
【冨田】これからの日本社会に求められるのは、まずは先ほど中西先生にも強調いただきましたが、指導者ひいては政治にどのような役割を果たしてほしいか、国民の側が明確な問題意識をもつことでしょう。
そのうえで、これからの政治指導者に期待したいことを考えると、アメリカの国務長官などを務めたヘンリー・キッシンジャーが自著『外交』で指摘している点が思い出されます。すなわち、キッシンジャーは、偉大な大統領とは、国民の将来とそれまでの国家の経験のあいだに存在するギャップを埋めるための教育者でなければいけない、と記しています。言い換えれば、国民が急激な時代の変化に対応できるように啓蒙することが政治指導者の役割だと定義しているわけですが、このことは現在の日本にも当てはまると思います。
たとえば昨今、国内外を問わず、グローバル化の帰結について啓蒙してきた政治指導者がどれだけいたでしょうか。その営みが欠落していればこそ、国民は先行き不透明な現状に不安を感じ、政治への不満を爆発させている。日本においても、これからどのような変化が起こりうるのかを説明したうえで、国民が必要な心構えを行なう手助けをしていくことが、今後の政治指導者にとっては重要な役割になるはずです。
【中西】私としては、まずは声を大にして、政治指導者に期待するよりも先に、いま有権者としての日本の国民に求めたいことが山ほどあります。そのうえで冨田先生のいまのお話をふまえるならば、たしかに日本では教育
的あるいは啓蒙的な役割を果たす政治家は極端に少なく、その種の議論を避けているようにさえ思われる。
そのなかでも、安倍元首相はやはり「偉大なコミュニケーター」でした。永田町的な感覚に陥らずに大衆を意識しつつ、知的にビジョンを示そうとしていた。おそらくは、「国民に意識を変えてほしい」という強い想いがあったからでしょう。政治家にはぜひとも勇気をもって、教育者や啓蒙家、さらに言えば説得者としての役割を担ってほしいところです。
具体的な政策課題について言えば、日本の場合は外交・安全保障の議論を避けて通れませんが、いま焦眉の問題として浮上しているのが財政政策であることは多くの日本人が実感しているとおりです。これから「積極財政か、規律重視か」という議論に収斂していくでしょうが、専門的な議論はさて措くとして、私としてはこの機に「受益者としての国民」が求めているものだけを前面に出し、それに阿るだけの政治に陥ることなく、政治指導者にはあえて大局的な視座から、広く問題提起をしてほしい。
たとえば、ドイツなど欧州では、安全保障の財政的なコストの負担について、国家存立の危機を認識しはじめた国民が大きく意識を変えています。日本でもまもなく、そうした次元にまで議論が及ぶであろうことを国民も覚悟するべきだし、政治指導者はそれを待つのではなく、勇気を奮って呼びかけなければいけません。そうすれば国民は必ず変わると思います。
【冨田】いま世界では、移民問題といった個別政策をめぐり政治の分断が進んでいますが、政治の大きな方向性については、かえって対立軸が見えにくくなり、極端な主張が通りやすい状況が生まれています。
日本でも、従来であれば国民は、「保守vs進歩」「日米安保vs非武装中立」といった大きな対立軸をめぐって政治選択が行なわれてきましたが、昨今はコメの流通やガソリンの暫定税率といった個別問題の次元で選択が求められている。そうした状況のもとでは、国の進路についてなかなか方向性がわかりにくくなっているのは必然なのかもしれません。
政治指導者は国民に対してもっと大きな対立軸を明らかにしたうえで問題提起しなければいけないし、国民はそれを「わがこと」として政治選択しなければいけない。この一連の流れこそが、いまの日本にもっとも求められているはずです。
更新:12月12日 00:05