2025年12月08日 公開

幸福度に最も影響するのは「他者とのつながり」であり、その中心にあるのが結婚という共同関係だ。しかし現代日本では、家庭と仕事が切り離せず、結婚のメリットが十分に生かされていない現実があると、社会学者の筒井淳也氏は語る。
★本論稿は、意見集約プラットフォーム「Surfvote」と連動しています。
※本稿は、『Voice』2025年10月号より抜粋・編集した内容をお届けします。
たくさんの調査データを扱ってきた社会学者として、人びとの「幸福度」にもっとも強く影響する要因をあえて選べと言われたら、こう答えたくなる。それは「他者とのつながり」である。そして現代社会において、大人が親族以外の別の大人と深く結びつくとすれば、ほとんどが結婚あるいはそれに類するパートナーシップだ。
結婚は現代社会において、大人どうしの共同生活の大半を占めている。結婚あるいは事実婚をしていない誰かと一緒に暮らしている人は、現時点では例外的だ。
実際、結婚は人びとの幸福度と強く関連する。もちろん、そもそも幸福は一律の定義もできないし、したがって測定も難しい。そのような難しさはありつつも、研究者は何らかの方法で幸福度あるいはそれに関連する生活の満足度を測定しようとしてきた。
もっともシンプルなのは、「あなたは現在どれくらい幸せですか」と尋ね、4~10段階くらいの選択肢から選んでもらう方法だ。「こんな単純な方法で何がわかるのか」という気もするが、このようにシンプルに測定した場合でも、それなりに回答結果は人によっても違うし、またその人の属性(性別など)、国、所得などによってはっきりと違う。
世界66カ国、計9万7220人分のデータを含む『世界価値観調査』(第七波、2020年前後に調査)のデータでは、同じ設問において幸福度を4段階で尋ねている。共通設問(質問文+選択肢)をもとにした調査ではあっても現地の調査時点では言語は違うわけで、微妙なニュアンスによって回答傾向が異なることもありうる。
ただ、同じ英語の調査票を用いた国でも、幸福度の最上位の選択肢を選んだ回答者の割合はオーストラリアで31%、カナダで21%とかなり異なる。
このような多様性を含んだデータであるが、多くの国、とくに近代化された経済先進国において、結婚あるいはパートナーシップは、幸福度や生活満足度と強く関連している。パートナーシップ状態による幸福度の違いは、法律婚のパートナーがいる人でもっとも高く、次にパートナーとの事実婚(同棲)、パートナーなし、離死別状態、と続く。この違いの大きさは、概して性別による違い(男性で若干幸福度が高い)よりも大きい。
もちろん、このことは単純に因果関係として考えられるようなものではない。「どうしたら幸福になれるのか」という問いを因果的な問い、「どういう人が幸福だと感じているのか」を社会学的な問いだとすれば、いわゆるアンケート調査からわかるのは、たいてい社会学的な問いへの答えだ。
「結婚している人はそうではない人に比べて平均的に幸福を感じている」ということは、「結婚すれば人は幸せになれる」ということを必ずしも意味しない。そもそも最初から条件を満たしている(経済的に恵まれている)人が結婚している、あるいは結婚することで幸福になれるという見込みがあるから結婚する、という要素もあるからだ。
ただ、じつはこのこと(「結婚することで幸福になれるという見込みがあるから結婚する」)に現代社会における結婚の意味が隠されている。かつて結婚は、現代社会における義務教育と同じく、たいていの人にとって必須のイベントだった。結婚は家族あるいは家が、ひいてはそこに所属する人びとが生き残るための戦略の一環であって、個人の幸福のための手段ではなかった。
いまでは違う。とくに女性の高学歴化や雇用労働化が進むと、結婚はますます「結婚することで幸せになれるのならする。幸せになれないのならしない」という選択になった。人びとはたんなる結婚ではなく幸福な結婚をめざすようになった。上手くいかなければ離婚である。現代において、自己選択は結婚の本質である。ならば、結婚が幸福に結びつくのも当然だといえる。
選択の自由と幸福の追求が結びついたところに結婚がある。これでよいではないか、という考え方もある。ただ問題は残る。日本では同性婚が選択できないといった問題もあるが、ここではほかに二つ指摘しておこう。
一つは、どの国でも「パートナーがいること」と「子どもがいること」が強く結びついているため、大人の共同関係は、当事者以外の他者、すなわち子どもの幸福度を左右する。さらに大人の共同関係の自由化は、社会保障体制の維持に影響する出生率が低い状態を招きやすい。個人にとっての自由の帰結は当人たちの範囲を超えて子どもや社会全体に波及する。
もう一つは個人にとっての問題だ。結婚することで幸福が見込めるからこそ私たちは結婚するのだが、実際には結婚してそれなりに長い時間をともに過ごして、場合によっては子どもをもってみてはじめて、その結婚が幸福に結びついているのかがわかるのであって、結婚すると決めた時点では未来のことは不確定だ。このことを「コミットメント」という。
コミットメントとは、関係に入れ込まないとそこから得られるメリットは享受できないが、本当に関係が上手くいくのかどうかはやってみないとわからない、ということだ。大きな幸福を得ようとして他者と深い共同関係を結んだはいいものの、逆にそのことが地獄のような苦しみに変わり、しかも抜け出しにくい状態に陥ることがある。
コミットメントは企業社会にもある。この会社との取引に入れ込むことは、吉と出るか凶と出るか。いったん雇ってしまうとなかなか解雇できない状況で、どうやって人を選ぶか。予測できることもあればできないこともある。できない度合いに応じて、特定の状況、関係にコミットすることになる。
コミットメントは人生の至るところにもある。結婚は、進学先を選ぶこと、就職先を選ぶことに並ぶ、あるいはそれよりも大きなコミットメントだ。やり直しはきくが、一度結んだ関係をご破算にすることの損失は大きい。
かつてのように結婚が社会全体あるいは個々の家族の本質として組み込まれていれば、そこに不満はあっても不安(「失敗したらどうしよう」)はそれほど大きくなかった。不確実性のリスクは感染症やパンデミックによる高い死亡率や戦争・紛争にあり、結婚はむしろ安定化要因だった。よい結婚相手の条件も単純だった。家どうしが釣り合っている範囲で裕福な家の出身であること、健康であること、などだ。
現在でも、未婚時の所得や職業によって、とくに男性の結婚可能性が左右されることはたしかであり、このことについての経験的な証拠もある。ただ、こういった条件の問題をクリアすればすぐさま幸福な結婚にたどり着けるというわけではない。
私たちは、結婚あるいは他者との持続的な共同生活を構築することにおいて重視したいさまざまな要素をもっており、それを関係に持ち込もうとする。「一緒にいて(話をしていて)楽しい」「やさしい(寛容だ)」「稼ぐ力がある」「容姿が好みである」「趣味が合う」「食べ方が汚くない」「タバコを吸わない」などだ。重視している要素を達成できないようであれば、関係をもたないほうがましかもしれない。
ただ、関係をもったあとで相手に直してもらえることもありそうだ。それでも、結婚後に見つかるミスマッチも多い。いろいろなことを総合的に考えたうえで私たちは他者と関係をもち、「いける」と思えば本格的にコミットする。日本の場合、たいていそれは法律婚である。
結婚に至るこのような面倒で複雑な作業を、そして予測できない結果を受け入れて判断することを、会社の場合と違い、私たちは自分たちだけで行なうことを期待されている。人に相談することもできるが、なにしろ状況は多様で、あてになるとは限らない。
このハードルが高いプロセスをくぐり抜けられない人、そもそも尻込みしてしまう人も多い。楽観的な性格の人ならばひょいと乗りこえてしまう可能性もあるが、だからといって楽観は持続的な共同関係が上手くいく保証にはならない。
結婚は個々人の幸福に関連するのみならず、親子関係にも強く結びついている。子どものために壊れてしまった関係に留まることは必ずしも子どものためにはならないが、離婚やその後の(再婚を含めた)大人の共同性の再構築は、子どもに少なからず負担を強いる。
要するに、結婚あるいは大人の持続的な共同関係の在り方は、大人自身と子どもの幸福度と強く結びついているのに、なんとも面倒で、リスクが高く、結果が予測しにくいものなのだ。このようななかで個々人の不安を緩和し、結婚のメリット――個人的なものも社会的なものも――を引き出そうとするなら、何が必要になるだろうか。
一つの方法は、結婚や出生といった家族のキャリアと、人生におけるその他のキャリアやイベント、とくに仕事キャリアを「切り離す」ことだ。
家族生活とは別に、やりがいのある仕事や安定した稼ぎ、あるいはいざというときの行政や司法の支援があれば、自分の人生がまるごとそこにかかっている場合と比べて、人びとはまだ安心してコミットメントの決断をすることができる。失敗しても結婚生活とは別に生活基盤を確保できていれば、やり直しもやりやすい。
両立支援制度や両立を可能にする働き方がある程度発達したヨーロッパ社会において、事実婚を含めると日本よりも「シングル」の割合が若干小さい背景には、この「切り離し」があると考えてもよい。両立とは、苦労してなんとか仕事と家庭生活をやりくりすることというよりは、一方が他方にそれほど影響しない体制を本来は意味するべきだ。
こういった事情から、フランスやスウェーデンの人びとのほうが、他者とのコミットメントの壁を日本よりは軽く越えていく。「やってみないとわからない」という要素がなくなったわけでもないし、離別が人生に影響しないわけでもない。しかし、その影響をある程度ブロックできているわけだ。
欧米では、成人の共同関係と親子関係の「切り離し」も一定程度進んでいる。すなわち、多様化する成人の共同関係――法律婚、事実婚、離婚、同性婚――が子ども、あるいは子どもの福祉にあまり影響しないような措置である。
西欧では、親が結婚していても、結婚していなくても、子どもとの関係はそれほど違わない。多くの国ではすでに、同性婚の当事者も生殖補助技術と配偶子提供を利用して子どもをもつことができる。離婚後に子どもの安定した生活が構築できるように、司法を含めてさまざまな対応が制度化されている。
まとめてみよう。人は他者との共同性から大きな幸福を得るが、一定の深さの関係を築くためにはコミットメントが必要であること、しかし関係に入れ込んだあとでその関係が上手くいかないこともあり得、そのことで大きな心理的損失を被る可能性もある。したがってコミットメントが上手く構築できない、あるいはコミットメントから撤退してしまう人も出てくる。
ここで、他者との共同生活(現状ではたいていは結婚生活)とそのほかの人生の局面との「切り離し」がある程度進めば、コミットメントのハードルが若干下がり、私たちは他者との協働関係の構築に取り組み、またそれを再構築する際にやりやすくなるかもしれない。
この切り離しは、基本的に社会全体の制度としてしか実現しない。たしかに「実家が裕福」「近隣の援助がある」といった要素によって結婚相手との関係に依存しなくてすむ場合もあるだろう。しかし、地理的移動が当たり前になった社会では、どうしても勤め先の企業や公的機関の力が必要になる。
たとえば離婚後の子どもの養育体制についてだが、もし共同親権(日本では2026年度から導入予定)を設定する場合、かなり面倒な取り決めが必要になる。司法(家庭裁判所)の力なしでは難しいこともある。子どもの幸福に直結する問題だが、日本では家庭問題に行政や司法が介入する際の基準について、しっかりと議論されていない。
雇用や働き方は、欧米では家族生活との切り離しがある程度進んでいるものの、日本では道半ばだ。日本でも仕事キャリアを蓄積する女性が増えてきたが、未だに大半の有配偶女性はパートタイマーとして働いている。
「男性的働き方」、すなわち家庭のことをしてくれる人が別にいることを前提とした働き方と、家庭責任があるために仕事にコミットできない「女性的働き方」が分かれているからである。このような状況では、結婚生活が自分に幸福をもたらしていないと感じていても、経済的安定のためには、おいそれと離婚というわけにはいかない。
課題はほかにもある。大人の共同関係と子どものリスクを緩和するために「公的支援が必要」「働き方改革が必要」といってみたところで、それはどちらの部門にも重い負担を強いる。体制の構築のためには、政府と私企業の負担を軽くするための最低限の経済成長と、社会的な合意が必要なのだ。
日本では、少子化対策としての家族支援政策が大筋の合意を得ている。出生数の低下が危機的だという認識が有権者のあいだで広がっているからだ。
しかし結婚・パートナーシップへのコミットメントを後押しするような、よりトータルな体制づくりは、その負担の大きさもあって思うように進んでいない。家族、とくに「しっかりとした男性稼ぎ手のいる家族」ではないといろいろな面で生活が苦しくなる。稼ぎ手男性との相性がよくない場合、幸福度が低くてもそこにしがみつくしかない。
かつて「リベラリズム」を思想的に再構築したといわれる政治哲学者ジョン・ロールズは、「もっとも不利な立場に置かれた人の利益が最大となる範囲で格差を容認する」というmaxmin(マキシミン)原理を提起した。
それがもっとも不利な状態なのかどうかはさておき、結婚という共同関係をポジティブに構築・維持することに失敗すると、人は非常に大きな心理的損失を被ることがある。
そしてこの損失を回避するためにそもそもコミットメントのリスクを冒さないという選択がとられることもある。人が関係性から大きな幸福を引き出す生き物である以上、深い関係性に突入することの壁を社会的に低くしてあげることには、全体の幸福においても意味をもつ。
以上のような意味で、家族に対する公的支援、仕事と家庭の両立制度は、少子化対策のみならず幸福度の点からも社会的に大きな意義があるものだ、という認識をもつ必要がある。
更新:12月11日 00:05