
侵略に正当性があると本気で考えるプーチン。そんな大統領を高い支持率で指示する国民。なぜ強権的な統治が成り立ち続けているのか。国家と社会が一体化する彼の国の特異さを、前後編にわたって紐解く。
※本稿は前後編の前編です。『Voice』2024年6月号より抜粋・編集した内容をお届けします。
2022年2月24日にロシアがウクライナへの侵略を開始してから、早くも3年以上が過ぎた。戦争が勃発して以降、世界がもっとも懸念した点の一つが、ロシアによる核兵器の使用であろう。核が使われて戦火が世界に広がり、全面戦争に発展するのではないか、という深い憂慮は西側諸国から語られた。
たしかに、ロシアは核兵器を保持しており、プーチン大統領は使用をチラつかせてきた。しかし実際のところは、現在に至るまで抑止力が働いている。プーチンとしても、さすがに核戦争を始めた人間としてその名を歴史に残すことは避けたいはずで、この甚大な武器を「脅し」としてしか使えていない。
そもそも、小泉悠氏(東京大学先端科学技術研究センター准教授)などが指摘するように、核兵器には戦術核もあれば戦略核も存在し、その使用が直ちに全面戦争につながるわけではない。裏を返せば、ロシアが戦術核をウクライナに撃ち込んでも一発で屈服させることはできない可能性があるわけで、そのときには核の脅しの効果が失われることを意味する。
また、万に一つも西側が本格的に参戦する全面戦争に発展させることは、ロシアからしても歓迎すべからざるシナリオだ。つまり、プーチンにとっても核兵器とは扱いが難儀な武器であり、ある意味では足枷だと表現できるかもしれない。
以上のとおり、プーチンは彼なりの合理性のもとに行動していて、現在に至るまで核兵器を使用していない事実が一つの証左である。もちろん、彼の行動が本当に合理的であるかは大いに議論の余地がある。ただし、西側ではプーチンは狂乱して今回の戦争を起こしたなどとも語られるが、それは短絡的な見方であるとは言えるだろう。ならば、プーチンはいかなる原理のもとで行動しており、なぜウクライナを侵略したのだろうか。
しばしば語られているとおり、プーチンひいてはロシアの国民が、ウクライナを特別な地として認識していることは間違いない。大多数のロシア人は、ウクライナは身近な勢力圏であり、簡単に西側に渡すことはできないと考えている。
とくにプーチンを苛立たせたのが、2014年2月のマイダン革命だろう(キーウで勃発したウクライナ政府側とユーロマイダンデモ参加者の暴力的衝突。当時のヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領が失脚してロシアへ亡命)。プーチンはこの事件を受けて、ウクライナが西側に取り込まれたと認識し、「奪われたものを取り返す」という情念に駆られたはずだ。
プーチンという人物が、強固な歴史観をもっていることは間違いない。彼は新型コロナウイルスが感染拡大して皆が外出を控えていた時期、ソチの別邸にこもって歴史書を読み漁った。影響を受けた一人が、保守的な歴史家ウラジーミル・メジンスキー氏で(現・大統領補佐官)、彼の著書ではロシアとウクライナ、ベラルーシの三位一体論が展開されている。
プーチンが戦争を始める約半年前の2021年7月、「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について」と題した論文を発表していることは広く知られている。ウクライナからすれば、今回のロシアの行動は「侵略」以外に表現する術がないが、プーチンは歴史的正当性があると本気で考えている。
たしかに、帝政時代からソ連時代、そしてソ連解体後も、ロシアには100以上の民族が暮らしているが、とりわけウクライナはロシアにとってもっとも関係が深い存在であることは間違いない。
歴史を遡ると、9世紀にルーシと呼ばれる古代ロシア国家ができた当時、現在のウクライナの首都であるキーウはその中心地の一つであったが、そのころはロシア人もウクライナ人もまだ分化していなかった。この歴史をふまえ、ロシアとウクライナの関係性について「両国は歴史を共有している」と表現する歴史家は存在する。
しかし、ロシアとウクライナの歴史の共有性をあえて強調することは、プーチンの論理をなぞっているだけで、注意が必要だというのが筆者の考えだ。
13世紀に入り、ロシアはモンゴルに支配された。いわゆる「タタールの軛」で、これ以降、ロシア地域とウクライナ地域に分かれるようになり、ウクライナ地域はポーランドの支配下に入る。ロシアがウクライナ地域を併合するのは17世紀のことだから、両国はじつに約400年ものあいだ、一体ではなかったことになる。
日本はかつて、身近な土地であり文化も比較的近しい朝鮮半島などを統治したが、そこに客観的理由は求められないし、現にいま日本の勢力圏だと主張する日本人はまずいない。ロシアとウクライナには、たしかに一定の歴史的共有性がある。だからといって、プーチンが領土的野心を正当化する大義名分にはなり得ない。
続いて近現代のロシアとウクライナの歴史を紹介すると、19世紀後半から20世紀初め、国民国家の時代が訪れると、ロシアのような多民族帝国は立ちいかなくなる。西ヨーロッパあるいは日本では、身分制の意義が相対的に弱まり、国家に属する意識をもつ国民であれば能力次第で活躍できる社会がつくられ、軍事的にも経済的にも発展していく。
一方のロシアでは、依然として身分や民族ごとに役割や立場が決まっていた。近代国民という概念を取り入れることができなかったロシアは、やがて衰退していき、1905年には日露戦争で日本に敗北を喫する。その後、ロシア革命を経て、ウクライナやベラルーシなどそれぞれの民族が国をつくるとともに、上部機関としてソビエト連邦がそれを統合した。
こうして共産党支配という前提のもとではあるが、ウクライナでは「ソ連市民」という意識とともに「ウクライナ人」という民族意識が育ち始める。とはいえ、ロシア人は「諸民族の長兄」と位置づけられており、その強い自意識が今回の侵略戦争の背景にも見てとれる。
そのソ連が解体すると、当時のエリツィン大統領とウクライナのクラフチュク大統領のあいだにはソ連解体という共通の目的があったため、関係性は悪くなかった。すでにクリミア半島の帰属問題などは懸念として存在していたが、まずは互いの独立と安定化が最優先されたのだ。ソ連解体直後、ロシアの国力は弱く、国際社会で生き抜くためにも国境問題を引き起こすのは得策ではないことを、エリツィン大統領は十分に理解をしていた。
ところが21世紀に入ると、原油価格の高騰などと相まってロシアの国力が向上していった。同時に国際秩序にも変化が訪れる。2001年の米国同時多発テロや2008年のリーマン・ショックを経て、米国のプレゼンスが冷戦時代と比べて低下していったのだ。
2000年に大統領に就任したプーチンは、ロシアの復権と米国の凋落を受けて活動の自由度を上げていく。国内で権威主義体制を強化してゆき、自身の歴史観を純粋化あるいは徹底化したのだ。そんなプーチンがウクライナへの侵略に踏み切ったのは、非常に残念ではあるが、ある意味では時間の問題だったのかもしれない。
以上で見てきたような歴史観について、プーチンの特殊な思考と推察する読者もいるかもしれないが、じつのところ、ロシア国民のあいだではむしろ常識的な考えとして共有されている。
プーチンは今回の戦争の正当性を主張するため、「ウクライナは広い意味でのロシア世界の一部だ」「第二次世界大戦でロシアはナチスと戦って勝利した。ウクライナはそのナチスに支配されている」などと喧伝しているが、これらの言説はロシア国民に当たり前のように受け入れられているのである。
たしかにロシアにも、ウクライナはもともと別の国だと考える国民はいる。しかし、それは多くても2割程度にすぎない。多くのロシア人は、ウクライナは「われわれの領土の一部」と認識していて、プーチンの主張を受け入れている。保守的な人物であれば、ウクライナに対して「小ロシア」という表現を用いるほどだ。
歴史観にかぎらず、プーチンの思考や行動原理は彼独自のものではない。それは、2024年3月に行なわれた大統領選挙で、プーチンが過去最高を記録した87.28%の得票率で圧勝したことからも窺える。
多くの日本人は「プーチンはなぜあれほど強権的なのに国民から支持されているのか」と訝しんだのではないか。たしかに、私たちの感覚から考えるならば、不当な侵略戦争を仕掛ける為政者は国内からも批判されて然るべきだろう。しかしロシア人の伝統的特性に鑑みれば、今回の大統領選の結果はむしろ腑に落ちる。
プーチンは、国家に何よりも価値を置いている。世界には約200の国が存在するが、本当の意味で主権国家と言えるのは、為政者および政府がすべての行動を決められるロシアと米国、中国などに限られる。これがプーチンの思想であり、要するに国家の上には権力は存在せず、もちろん国際連合などの国際組織も眼中にない。
自分たちを妨げるものは武力のみで、戦争は国家主権を発動しているだけの話であり、それが侵略であるか否かは意味を成さないのである。そして、プーチンからすれば国家に最大の価値を置くからこそ、強権的な手法で政治を司ることに対しても疑問を抱かない。他方で、国民の側もなぜそれに従うかと言えば、ロシアでは歴史的に公権力を抑制する力が弱かったからだと説明できる。
西ヨーロッパでは、教会や都市の力が強く、公権力とのあいだに緊張関係があればこそ、契約や法律という概念が生まれた背景がある。それに対して、ロシアの歴史的経緯を辿ると、バイキングが東スラブの現地の人びとを統合してルーシをつくり、のちにビザンツ帝国から入った教会は最初から皇帝に従属する存在だった。西ヨーロッパのように、教会権力が公権力とは別に成長し、互いに対峙する構図は生まれなかったのである。教会はむしろ、皇帝のもとで権力を高めていった。
また、西ヨーロッパではフィレンツェのメディチ家のように大権力をもつ都市および商人が出てきたが、ロシアの都市は行政拠点あるいは軍事拠点として設けられたのが起源であり、教会と同じく公権力に従属する存在であった。軍事拠点としてつくられた都市は、戦争の前線が動くと放棄される場合もあり、ローカルな商人ネットワークも築かれなかった。
また、かつてロシアの中心だったキーウやウラジーミルはモンゴル支配時代に徹底的に破壊され、経済的に成長する基盤が損なわれた歴史も関係している。例外は、西ヨーロッパ商業都市によるハンザ同盟に加盟したノヴゴロドくらいだろう。
19世紀になると、ロシアでも公権力に異議を申し立てる貴族やインテリが現れ、議会や憲法の制度を整えようという機運が高まった。1825年のデカブリストの乱は、西ヨーロッパの自由や憲法をロシアにも取り入れたいと考えた青年将校の反乱である。
しかし、貴族やインテリは結局のところ公権力が築いた仕組みのなかで力を得ている人びとで、8割から9割を占める一般的なロシア国民の共感は得られなかった。たとえば、地方に暮らす農民にとって、自分たちの土地はツァーリ(ロシア皇帝)に与えられたものであり、一握りの知識人が、法律を整備して適切に土地を再配分しようと呼びかけても、彼らは理解できないし、理解しようともしない。
古来、公権力が強力であったロシアでは、皇帝あるいは政府に従うという国民が大多数である。その国家観あるいは権力観は当然のごとく社会で共有されていて、西ヨーロッパ的な民主主義を支持する国民はごく一部にすぎない。だからこそ、1917年の二月革命で生まれた臨時政府は8カ月間しか続かなかったし、ソ連の民主化を進めたゴルバチョフ書記長も国内では西側ほどには評価されていない。
そんな社会の特性を後ろ盾にして強権を振るっているのがプーチンであり、圧倒的大多数の国民は彼を支持している。それは言い換えれば、ロシアでは国家と社会がまさしく一体化している。ある意味ではロシアとは「空気」が優先される国で、国民は自主独立を尊ぶよりも巨大な権力に従い、誰もがそれなりの利益を享受できる仕組みなのである。
(後編につづく)
更新:07月09日 00:05