
大量の空母と圧倒的な国力で太平洋を制した米軍に対し、日本軍は目的を見失ったまま戦線を拡大。国力の限界から「架空の増産計画」を捏造する事態に陥る。勝敗を分けた日米の戦略と総合力の格差に迫る。
※本稿は、波多野澄雄著『なぜ日本は米英中ソと戦ったのか』(PHP新書)から一部を抜粋・編集したものです。
太平洋を舞台とした熾烈な戦いを米軍が制した要因として、米海軍が真珠湾攻撃を契機として、巨大な大砲を備えた戦艦ではなく、空母を中心とする機動部隊の編成へ移行したことを挙げることができる。
ただ、戦争前半期には空母の数は限られ、米海軍が開戦時に保有した空母は護衛空母を含めて合計8隻にすぎなかった。終戦までに、主力空母のエセックス級16隻、軽空母9隻に加え、護衛空母115隻を完成させている。日本海軍による大型空母の建造はわずか1隻であった。ただ、エセックス級の高速の大型空母建造には2年以上を要することから、急速な需要に間に合わせるため、建造中の1万トン級の巡洋艦を航空機が搭載可能な軽空母に転用している。
43年半ばから大型空母9隻が中部太平洋戦域に投入され、同時期には新たな空母艦載戦闘機であるF6Fヘルキャットが登場している。ゼロ戦をはるかに上回る撃墜率を誇り、増強された空母艦隊に加えられた。補給面でも、前進基地の整備、洋上補給部隊の編成によって長期行動が可能となった。空母機動部隊は船団の護衛、敵艦隊の攻撃に加え、地上の重要施設や敵基地の攻撃までも担うようになる。
43年後半から44年前半にかけ、空母機動部隊を先頭に、ギルバート諸島、マーシャル諸島を攻撃し、44年2月には南太平洋の日本海軍の中核基地トラック島を攻略した。同年6月にマリアナ諸島を攻略した第58機動部隊は、正規空母7隻、軽空母8隻、航空機800機、上陸前に艦砲射撃を行う高速戦艦7隻、巡洋艦21隻などで構成される大部隊であった。
44年10月のレイテ上陸作戦時には、第38機動部隊は正規空母8隻、軽空母8隻、作戦戦闘機1100機であった。第58機動部隊(旧第38機動部隊)は、沖縄戦では高速空母11隻、軽空母6隻、作戦機は1200機を擁する巨大な戦力となっていた。
こうして、高速の空母機動部隊は米海軍の中核戦力となったが、それを支えたのは、大量の空母や航空機の生産を可能にする巨大な工業力であった。加えて航空機パイロットの教育訓練、米本土から遠く離れた作戦海域において部隊を運用するための前進基地と洋上補給部隊から構成される大規模な補給システムも不可欠であった。
総じて、総合的な国力と技術力、それらの効率的で迅速な動員力において日本を圧倒していたのである(八木浩二「アメリカ海軍における空母の誕生と発展」)。
日本陸海軍は何を求めて対米戦争に突入したのであろうか。開戦の経緯をつぶさにたどると、最も重要な目標は、日本帝国の経済的生存と帝国圏の安全保障の確保(自存自衛)であったことがわかる。
この「自存自衛」は南方作戦によって東南アジアの資源地帯を占領し、一応達成されたはずであった。実際、陸軍は東南アジアの防備を固め資源開発に努めるという守勢作戦を主張した。しかし、海軍は真珠湾奇襲の勢いをもって攻勢作戦の続行を説き、両者の主張は前述のとおり、42年3月の大本営政府連絡会議決定の「第一回戦争指導大綱」において両者の主張を併記する形で決着している。
その結果、どの地域まで進出すれば自存自衛が可能になるかという問題が戦争指導のうえで考慮されることはなく、作戦優位の戦争指導は戦場を際限なく広げ、それに応えるための海上輸送路の確保、船舶増徴と航空機の増産といった総合的国力の問題が置き去りにされてしまった。
たとえば、43年8月、陸海軍は66万トンという膨大な船舶の増徴とともに、55000機にのぼる航空機の増産を相次いで要求した。ガダルカナル島撤退後、ソロモン、北部ニューギニアにおける激しい攻防戦において大量の航空機が損耗し、制空権も失うという状況がその背景であった。
増産計画を立案していた企画院は、これらの要求を満たすことは不可能と知りつつも、企画院調査官・田中申一の回想のように「架空に近い条件を前提に増産計画を捏造」しなければならなかった。そして、企画院がはじいた机上の計算を陸海軍が奪い合うという悲喜劇が繰り返された。
作戦上の要求と国力の限界というジレンマは政戦略の不統一、国務(政府)と統帥の不調和という深刻な問題にも及び戦争指導体制を破綻させるのである。手段や資源に見合ったレベルの戦略構想を組み立てるという自明の英知はついに発揮されなかったのである。
更新:08月12日 00:05