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日本社会は「高学歴の人にしかチャンスを与えない」 学歴主義の世知辛さ

2025年03月27日 公開

勅使川原真衣(組織開発専門家)

勅使川原真衣 『学歴社会は誰のため』

学歴不要論が盛んに議論される一方で、学歴社会が根強く残るのはなぜでしょうか。それは一体、誰のために存在するのでしょうか。教育社会学を修め、企業の論理も熟知する組織開発の専門家による書籍『学歴社会は誰のため』より解説します。

※本稿は、勅使川原真衣著『学歴社会は誰のため』(PHP新書)から一部を抜粋・編集したものです。

 

学歴社会では頑張りたいときに頑張れない

多くの人の人生は、学校(教育)から仕事へと連綿とつながっていくわけですが、学校の本当のすごみは、「進路」を決定づける力をもっていることです。勉強の出来がとびきりよければ、入るのが難しいとされる難関校をめざすものです。それが仮に高校だとしたら、その後も学びの遍歴を積み重ね、そして次なる学校段階である大学の入学試験にチャレンジすることでしょう。

他方で中学でグレて勉強に身が入らず、昼夜逆転した生活をして出席日数も足りず、読み書きもやっと......ではいわゆる名門難関高校には進学できません。となるといまの社会において中卒で、正社員としていきなり働ける口は狭いものですから、何らかの非正規雇用の形で働きに出るか、入試倍率の低い高校に進む人もいるでしょう。

さて、そうした足跡に対して、こう思う人もいるかもしれません。

「頑張ってこなかったんだから仕方ないんじゃない?」

と。しかし、このことの本当のエグさは、次のような問いから深掘り可能です。

「じゃあ、頑張ろうと思ったときに社会は頑張らせてくれるのか?」

皆さんはどう考えますか。つまり、何らかの事情で学童期に勉強がままならず、能力が低いと見なされた子が、「もう勉強はこりごりだ! 高校も大学も行かない!」といきりたって15歳で社会に出たとします。ただ、人も環境も絶えず変化していますから、何かのきっかけで、「財務省に入って日本の経済をよくするんだ!」と思い立つ可能性もあります。

しかし、学歴主義のある種の世知辛さは、こういった人生の「路線変更」「ギアチェンジ」に際して露呈します。つまり、野望を表明したところで現実世界は、その言葉を額面どおりに受け取るほど人の能力を信用しかねるのですね。

「本当に頑張れる人なら、もっと努力と実績を積み上げてきているけど?」と言い放つ威力を学歴主義は内包しているわけです。仕事の難易度に加えて、多くの人がその仕事をしてみたいと願うのなら、当然そこには選抜が行なわれます。

となると、周り(社会)はある程度の努力の痕跡や実力の証明がないと、大勢の中から「なぜあなたがこの仕事をするのか?」の説明がつかず、認めるわけにはいかないのです。

そうして学校から仕事へと「順当に」進路が水路づけられるよう、過去の積み重ねと現在の実力が学校教育というライフステージで絶えず問われ、鍛えられます。

そうやって、厳しくも正当性をもって仕事が振り分けられていく――これぞ日本の教育システムであり、それと接続する就職システムの基本形と言えます。

 

努力と実力の度合いを測るための学歴

学歴社会が最高、最善の社会システムかどうかはわかりません。いつの時代も何であれ、ああだこうだと欠陥を指摘されるものですが、かといって、次の素朴な気持ちに反論できる人はいるでしょうか。

「お金をもらってやる仕事(プロフェッショナル)をするうえで、努力し続けられる人でかつ、仕事を全うするうえで必要水準以上の能力はもっていてほしいんですが......」と。

たとえば「やる気はあるけど勉強したことはありません♪」なんて医者がいたら、患者からしたら絶対に嫌でしょう。弁護士もしかり、他のもろもろの職業もしかりだし、政治家だってちゃんと実績といまの手腕を見極めたいですよね。

だって、その仕事の先にいる顧客・サービスの受け手としては我が身に降りかかってくる話なわけです。つまり、能力主義の問題は誰にとっても自分事で、その利害というのは互いに絡み合っているのです。

利害が交錯すると何が起きるか。1つには、相互に監視(評価)し合うことを許してしまうと考えます。

「ちゃんとできるんでしょうね? やってるんでしょうね? 頼みますよもう」

という具合に、誰かの仕事は誰かに絶えず見張られている。この緊張状態のなか、なんとか成り立っているのが近現代の能力主義であり、それを代表的なクレデンシャル(認定証)にした貨幣経済であり、労働社会と言えます。

そう考えると、「努力と実力の度合いを推し測るにあたって、過去の学びの道程と、達成度合いがわかる学歴が参考にならないわけがないよね?」というくらいの話だと思えてこないでしょうか。

 

人生を左右するなら必死になりますよね?

試験を行ない、選抜や評価を続ける近現代の学校システムが能力の証明機関となり、能力主義をバックアップする。と同時に、学校には序列ができています。難関校、中堅校、実質的には試験なしで誰でも入れる学校......などと枝分かれし、人びとは「能力」次第で、どの程度の学校をめざすのかを決め、試験の結果で水路づけられていきます。ここまでは序の口。

能力主義が学校教育の前提であることが仮に教育だけの話であれば、人生の一時期の話なので、どこかで終焉を迎えていてもおかしくありません。ただ能力主義が不朽の社会システムであるのは、学校での教育歴が、「稼ぎ」を左右する職業選択にもそのまま多分に影響しているからです。

「あの学校に入れてうまくやれたのなら、きっと難しい仕事もこなせるよね」という学歴(学校歴を含む)の職業分配機能を立派に成り立たせたわけです。職業における「訓練可能性」としての学歴。「誰ができそうか?」のシグナルとしての学歴。

これは社会が学歴を、効率的かつ説得的に社会生活のあらゆる原資を分け合うための重要ロジックだと、合意している状態と言えます。

こうも人生を左右する話が、人びとの話題から消え去るわけがありません。学歴があぁだこうだとしばしば批判されながらも、格好の会話のネタ、酒の肴であり続けるのは、こうした背景からなのです。

 

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