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【天才の光と影 異端のノーベル賞受賞者たち】第22回 ジョン・ナッシュ(1994年ノーベル経済学賞)

2023年11月02日 公開
2023年11月02日 更新

高橋昌一郎(國學院大學教授)

「ナッシュ均衡」を確立し、「プリンストンの幽霊」と呼ばれ、精神崩壊から立ち直った天才

ジョン・ナッシュジョン・ナッシュ(1994年)

どんな天才にも、輝かしい「光」に満ちた栄光の姿と、その背面に暗い「影」の表情がある。本連載では、ノーベル賞受賞者の中から、とくに「異端」の一面に焦点を当てて24人を厳選し、彼らの人生を辿る。

天才をこよなく愛する科学哲学者が、新たな歴史的事実とエピソードの数々を発掘し、異端のノーベル賞受賞者たちの数奇な運命に迫る!

※本稿は、月刊誌『Voice』の連載(「天才の光と影 異端のノーベル賞受賞者たち」計12回)を継続したものです。

 

どんなことでも自己流に行う少年

ジョン・ナッシュは、1928年6月13日、アメリカ合衆国ウエストバージニア州ブルーフィールドで生まれた。

ウエストバージニア州は、北アメリカ大陸の東部に位置し、アパラチア山脈の内部に位置する。北東側にはメリーランド州、北側にはペンシルベニア州、北西側にはオハイオ州、南東側にはバージニア州、南西側にはケンタッキー州がある。

「ウエストバージニア州」と名付けられたのは、南北戦争中、「バージニア州」が南部連合に加入した際、奴隷制度に反対する住民が立ち上がってバージニア西部に集結して独立したことに由来する。ブルーフィールドは、ウエストバージニア州マーサー郡最南部に位置する小都市である。

ナッシュの父親ジョン・ナッシュは、テキサス農業工科大学を卒業後、第1次世界大戦に中尉として赴任し、除隊後はアパラチア電力光熱会社(現在のアメリカン・エレクトリック社)に電気技術者として勤務した。彼は「礼儀正しく律儀で、あらゆる点で真面目で慎重」な性格だったという。

1924年9月、32歳のジョンは28歳のマーガレット・マーティンと結婚した。マーガレットは、当時の女性としては珍しくウエストバージニア大学を卒業し、英語・フランス語・ドイツ語・ラテン語を教える語学教師だった。彼女は明るく快活で、周囲からは「生まれながらの教師」と呼ばれていた。

結婚から4年後に誕生した一人息子が、ナッシュである。父親は、息子に自分の名前ジョンを引き継がせた。その2年後の1930年、妹のマーサが生まれた。

幼少期のナッシュは、近所の子どもたちと遊ぶのが嫌いで、部屋に引き籠って一人でぼんやりするのが常だった。妹マーサは、男の子たちに交じってフットボールで遊び、プールで泳ぐのが大好きだったが、それとは対照的に、兄のナッシュは家の中に引き籠り、絵本を読むか、一人でおもちゃの飛行機やラジオを分解したりした。

ナッシュは、鉛筆を持つと棒のように握り締めて、字を書くのも驚くほど下手だった。黙っているかと思うと、突然一方的に話し出して止まらなくなった。この癖は小学校に入学してからも直らず、小学校4年時の成績表には「学習の習慣を身につけて、規則を守るように努力しましょう」と指摘されている。小学校の教師たちは、ナッシュのことを「成績不良児」と決めつけていた。

のちに妹マーサは、幼少期のナッシュについて、「兄は、とても変わっていました。父も母もそのことをよく知っていました。同時に、兄が群を抜いて頭のよいことも理解していました。兄は、どんなことでも自己流に行わなければ気が済まない人だったのです」と述べている。

ナッシュの小学校4年時の成績表によると、算数は「Bー」(10段階評価で5)である。担任の教師は「お宅のお子さんは算数が得意ではありませんね」とナッシュの母親マーガレットに告げたが、彼女はまったく慌てなかった。なぜなら彼女は、息子が算数の問題を学校で習ったのとは違う彼独自の方法で解いていたことを、誰よりもよく理解していたからである。

この時期、両親はナッシュに『コンプトン百科事典』を買い与えた。この事典は、絵入りで児童にもわかりやすく書かれているが、全15巻770万語で毎年改定版が発行される充実した内容である。ナッシュは、何かに疑問を抱くと、この百科事典で調べ上げるのが癖になった。

 

「神童」あるいは「虫食い脳」

1941年12月7日、大日本帝国がハワイの真珠湾を奇襲攻撃した。ルーズベルト大統領は、即座に大日本帝国に宣戦布告し、アメリカ合衆国が第2次世界大戦に参戦することを世界に宣言した。

その数日後、父親ジョンは、13歳のナッシュと11歳のマーサを車に乗せて山麓の荒野に連れて行き、22口径のライフルの撃ち方を教えた。万が一、日本兵がウエストバージニア州に攻めてきたら、応戦するためである。

合衆国政府は、18歳から45歳のすべての男性に「連邦選抜徴兵登録庁」への徴兵登録を要求し、被徴兵者に18カ月の兵役期間を義務付けた。この時以来、ナッシュは、自分は将来徴兵されて戦争に行き、人を殺さなければならないのではないかという不安を抱くようになった。

父親ジョンは、どうせ戦争に行くのであれば、ウエストポイントの陸軍士官学校に進学して、兵隊に命令できる士官になればどうかとナッシュに勧めた。しかし、規則に縛られた寄宿舎生活にナッシュが耐えられるはずがないと、母親マーガレットが猛反対した。

中学校に入学したナッシュは、急激に数学と科学で優秀な成績を収めるようになり、周囲を驚かせた。彼は「神童」と呼ばれる一方で、彼の脳は「虫食い脳」だと陰口を叩かれることもあった。

ナッシュの脳の「数学・科学的思考」の部分は異様に発達しているが、一般的な「人間性・社会性」の部分は虫に食われて欠如しているという意味である。

15歳のナッシュは高校に入学した。この時点で、すでに彼の数学の能力は教師の力量をはるかに超えていた。教師が苦労して長い証明を黒板に書くと、ナッシュはそれよりも2段階から3段階短い簡単な証明方法を指摘した。そのためナッシュは、数学の授業の代わりに、特別にブルーフィールド大学数学科の授業を受講することになった。

当時の高校の化学の教師は、次のように述べている。

「化学式の問題を黒板に書くと、生徒はそれをノートに書き写して、鉛筆を使って解くのが普通です。ところがナッシュは、身動き一つしませんでした。黒板の化学式をじっと見つめて、やがて静かに立ち上がって、正解を答えました。彼は、すべてを頭の中で処理したのです。鉛筆や紙には触れもしませんでした!」

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著者紹介

高橋昌一郎(たかはし・しょういちろう)

國學院大學教授

1959年生まれ。ミシガン大学大学院哲学研究科修了。現在、國學院大學文学部教授。専門は論理学、科学哲学。主要著書に『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』(以上、講談社現代新書)、『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』『新書100冊』(以上、光文社新書)、『愛の論理学』(角川新書)、『東大生の論理』(ちくま新書)、『小林秀雄の哲学』(朝日新書)、『哲学ディベート』(NHKブックス)、『ノイマン・ゲーデル・チューリング』(筑摩選書)、『科学哲学のすすめ』(丸善)など多数。情報文化研究所所長、Japan Skeptics副会長。

X(旧 Twitter):https://twitter.com/ShoichiroT

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