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【天才の光と影 異端のノーベル賞受賞者たち】第21回 キャリー・マリス(1993年ノーベル化学賞)

2023年10月05日 公開

高橋昌一郎(國學院大學教授)

「PCR法」を確立し、女性とサーフィンを愛し、LSDに溺れた天才

キャリー・マリス
キャリー・マリス(1993年)

どんな天才にも、輝かしい「光」に満ちた栄光の姿と、その背面に暗い「影」の表情がある。本連載では、ノーベル賞受賞者の中から、とくに「異端」の一面に焦点を当てて24人を厳選し、彼らの人生を辿る。

天才をこよなく愛する科学哲学者が、新たな歴史的事実とエピソードの数々を発掘し、異端のノーベル賞受賞者たちの数奇な運命に迫る!

※本稿は、月刊誌『Voice』の連載(「天才の光と影 異端のノーベル賞受賞者たち」計12回)を継続したものです。

 

爆発物の大好きな少年

キャリー・マリスは、1944年12月28日、ノースカロライナ州レノアで生まれた。

ノースカロライナ州は、アメリカ合衆国の南東部に位置し、州の東側は大西洋に面している。北側にはバージニア州、西側にはテネシー州があり、南側はジョージア州とサウスカロライナ州に接している。

この地域は、数千年前から多くの種族のネイティブ・アメリカンが居住していたことで知られる。レノアは、ブルーリッジ山脈の山麓に位置する小さな村である。

マリスの父親セシル・マリスは、両親や親戚と一緒に牧場を経営していた。1937年3月、彼は7歳年下のバーニス・バーカーと結婚した。33歳のセシルと26歳のバーニスの間に生まれた一人息子が、マリスである。

幼少期のマリスは、祖父が1日に2回、朝と夕方に乳牛の乳を搾り、町の人々に届けるのに付いていくのが楽しみだった。マリスは、従弟たちと一緒に豚や鶏に餌を与えた。

夏の終わりになると、母親バーニスと祖母が裏庭のポーチでエンドウ豆やインゲンを剥き、リンゴや梨や桃の皮を剥くのを見ていた。剥いた皮は豚の餌になり、豆や果実は、煮沸消毒して乾燥させた瓶に詰めて地下室に保管する。これが、冷蔵庫のない家庭の食料保存方法だった。

マリスは、さまざまな小動物や昆虫の生態に興味をもった。とくに彼が観察したのは、祖父母の家の地下室に生息するクモの行動だったという。

マリスが7歳になると、母親バーニスが通信販売のカタログを見せて、その中から好きなクリスマスプレゼントを選ぶようにいった。

マリスは「ギルバート科学実験セット」を選び、クリスマスが過ぎると、すぐに実験を開始した。彼が何よりも興味を抱いたのは、どの薬品とどの薬品を混ぜ合わせると爆発が起こるのか、ということだった。

のちにマリスは、当時の「地元の薬局や金物屋は、子どものすることに対しては何であっても非常に寛容だった」と述べている。

彼は、今では用途を明確にしなければ購入できないような劇薬や危険物の数々を薬局で簡単に調達できた。30mの導火線を金物屋に買いに行った際には、店員が「銀行でも爆破するつもりかい」と笑いながら言って、問題なく売ってくれたそうだ。

マリスは、入手した硝酸アンモニウムとアルミ粉を混ぜ合わせて、アルコールランプで温めた。溶液が真っ赤になって沸騰してきたので、慌ててランプを消したが、反応は収まらない。

そして大音響とともに試験管が破裂した。ここで彼が生まれて初めて学んだのは、「おもしろくなければ、科学ではない」という彼が生涯抱き続けた思想だった。

 

ロケットを飛ばす高校生

1957年10月4日、世界最初の人工衛星「スプートニク1号」が、ソビエト社会主義共和国連邦によって打ち上げられた。この突然の出来事は、いわゆる「スプートニク・ショック」を全世界に巻き起こした。

打ち上げに使われたのは、第二次世界大戦中に開発された大陸間弾道ミサイル「サップウッド」を改良した「ロケットA」である。スプートニク1号自体は、直径約53cm、重量約84kgの小型衛星にすぎないが、仮に原子爆弾を搭載すれば、世界中あらゆる地域への攻撃が可能になる。

現在では「宇宙開発の幕開け」と呼ばれるスプートニク1号の成功も、冷戦下の緊張状態にあった当時は、恐るべき「軍事的脅威」とみなされた。

11月7日に続けて打ち上げられた「スプートニク2号」には、500kgを超える生命維持用の気密室が備えられ、雌のライカ犬が乗せられていた。この犬が、史上初めて宇宙に飛び出た地球上の生命となったわけである。なお、この衛星は回収されなかったため、地球周回軌道を回り続けたのち、大気圏で燃え尽きた。

翌年の1958年、アイゼンハワー大統領は「アメリカ航空宇宙局(NASA:National Aeronautics and Space Administration)」を創設させた。ここから米ソ両国の熾烈な宇宙開発競争が始まったわけである。

さて、「スプートニク・ショック」の影響を受けたマリスは、さっそく裏庭でロケットの製作を始めた。燃料にしたのは硝酸カリウムとスクロースで、その混合比を見極めながらテニスボールの缶に詰めて、バーベキューグリルの炭火で熱した。

台所の窓から見ていた母親バーニスは「爆発で眼をやられないようにするのよ」と叫び、マリスは「注意しているから大丈夫だよ、ママ」と叫び返したという。実に長閑(のどか)な家庭の光景といえるだろう。

1959年9月、ドレーハー高校に入学したマリスは、親友のアル・モンゴメリーと一緒に、ますますロケットの燃料実験に熱中するようになった。もともと、物理学や化学に興味をもつような生徒が少なかったため、科学の教員たちも彼らが放課後に科学実験室で好きなように実験することを黙認していた。

1961年4月12日、当時のソ連は、史上初めて有人宇宙船「ボストーク1号」の打ち上げに成功した。1時間48分にわたる飛行で地球を周回したボストーク1号は、予定通りソ連領内への着陸に成功した。人類初の宇宙飛行士となったユーリ・ガガーリン少佐は、帰還後の第一声で「地球は青かった」と述べた。

その直後の5月25日、アメリカのケネディ大統領は「わが国は、1960年代に、人間を月に着陸させて地球に無事帰還させるという目標を達成すべきである」 という有名な演説を行なった。

連邦議会は、この国家的事業の推進を即座に承認し、有人月着陸ミッションを最大目標とする「アポロ計画」に対して、総額200億ドルを超える予算が確約された。

一方、マリスらのロケットも徐々に精度を上げていた。彼らは、カエルを乗せて2km近く上昇させたのち、無事にロケットを軟着陸させて、内部のカエルを生還させることもできた。

日本では、東京大学教授の工学者・糸川英夫が全長23cmのペンシルロケットを開発していた時代である。マリスらは、当時のアマチュアの高校生としては、抜群の成果を上げていたといえるだろう。

ところが、ある日、大事件が起きた。彼らの飛ばしたロケットが、ノースカロライナ州コロンビア・メトロポリタン空港に着陸しようとしていたDC3型機にぶつかりそうになって、パイロットを大慌てさせたのである。この事件でFBIの捜査を受けて大叱責されたマリスらは、自作ロケットの打ち上げを諦めざるをえなくなった。

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著者紹介

高橋昌一郎(たかはし・しょういちろう)

國學院大學教授

1959年生まれ。ミシガン大学大学院哲学研究科修了。現在、國學院大學文学部教授。専門は論理学、科学哲学。主要著書に『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』(以上、講談社現代新書)、『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』『新書100冊』(以上、光文社新書)、『愛の論理学』(角川新書)、『東大生の論理』(ちくま新書)、『小林秀雄の哲学』(朝日新書)、『哲学ディベート』(NHKブックス)、『ノイマン・ゲーデル・チューリング』(筑摩選書)、『科学哲学のすすめ』(丸善)など多数。情報文化研究所所長、Japan Skeptics副会長。

X(旧 Twitter):https://twitter.com/ShoichiroT

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