ファインマンは、ロサンジェルスの暖かい気候を大いに楽しんだ。ノーベル賞の賞金でバハ・カリフォルニアにビーチ・ハウスを購入し、仕事が終わると、帰り道にトップレス・バーに顔を出して、ダンサーたちとの会話を楽しんだ。休暇にはラスヴェガスにもよく通ったが、これもギャンブルだけではなく、ダンスやショーを楽しむためだった。
1978年、ファインマンの腎臓に癌が見つかり、手術を受けた。1981年に再発して、2度目の手術を受けた際には、大動脈が破裂して、30リットルもの輸血が必要になった。
ところが、この輸血は、手術室に押し寄せたカリフォルニア工科大学の学生たちが献血したため、充分補えたという。名物教授ファインマンは、学生たちの人気者だった。
1986年1月28日11時38分、ケープケネディから打ち上げられたスペース・シャトル「チャレンジャー」号が、73秒後に大爆発を起こし、7名の乗組員が全員亡くなった。
当時のロナルド・レーガン大統領は、「未来は弱者のためにあるのではなく、勇者のためにあります。我々を未来へ導こうとしていたチャレンジャー号の乗組員の後に、私たちは勇気をもって続くことを誓います」と、亡くなった乗組員たちに賛辞を述べた。
その一方で、レーガン大統領は、この事故の原因を徹底究明しなければ、アメリカの宇宙開発計画の大きな障害となることを見越していた。彼は、即座に事故調査委員会を立ち上げるように、NASAに指示した。
事故から1週間後、ファインマンに調査委員会の12名の中の外部委員として加わってほしいという依頼があった。この時点で、ファインマンは腎臓を片方と横隔膜を半分切除し、さらに血液癌に侵され、心臓も弱っている状態だった。そこで断ろうとしたところ、妻グウェネスが次のように言った。
「もしあなたがいなかったら、12名の委員は団体で動き回って報告書を書くでしょうね。でもあなたがいたら、あなたは他の11名とは違うところを蚊みたいにブンブン飛び回って調べ上げるに違いない。何か変なこととか奇妙なことがあるとしたら、それを見つけ出すのはあなたよ。でもあなたがいなかったら、それは見つからないまま終わってしまうかもね」
結果的に委員を引き受けたファインマンが中心になって明らかにしたのは、「固体燃料補助ロケット」の密閉用「Oリング」が発進時に破損し、ロケットエンジンが発生する高温・高圧の燃焼ガスが噴き出したことが原因だということだった。彼は聴聞会の席上で「Oリング」のゴムを氷水に浸し、ゴムが弾力性を失うことを実証してみせた。
チャレンジャー号は、さまざまな要因によって7回も打ち上げを延期されていた。当日のケープケネディは、零下まで気温が下がり、技術者チームが再度の打ち上げ延期を求めたにもかかわらず、NASA上層部が打ち上げを決行した事実が明らかにされた。
ファインマンは、NASA上層部の「安全性評価基準」は現場の技術者の評価から「1000倍」かけ離れていたと批判し、「科学技術が成功するためには、体面よりも事実が優先されなければならない。なぜなら、自然を騙すことは誰にもできないからだ」と述べている。
彼は、1988年に発行された最後の著作『人がどう思おうと構わない!』(What Do You Care What Other People Think?)でチャレンジャー号事故に関わる倫理的な問題を詳細に分析している。このタイトルは、最初の妻アーリーンが彼を励ますために病院から出した手紙にあった彼の大好きな言葉である。
1988年2月15日22時34分、69歳のファインマンは、カリフォルニア大学ロサンジェルス校医療センターで癌により逝去した。死の直前、長い間意識不明だったファインマンが突然目を覚まし、「まだ死んでいないのか。もう一度死ぬなんて、実に退屈な話だ」と言った。このブラック・ジョークが、彼の最後の言葉になった。
更新:11月23日 00:05