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【天才の光と影 異端のノーベル賞受賞者たち】第13回 ヴォルフガング・パウリ(1945年ノーベル物理学賞)

2023年02月01日 公開
2024年12月16日 更新

高橋昌一郎(國學院大學教授)

酒に溺れ、数学と神秘主義を愛した破天荒の天才

ヴォルフガング・パウリ(1945年)
ヴォルフガング・パウリ(1945年)

どんな天才にも、輝かしい「光」に満ちた栄光の姿と、その背面に暗い「影」の表情がある。本連載では、ノーベル賞受賞者の中から、とくに「異端」の一面に焦点を当てて24人を厳選し、彼らの人生を辿る。

天才をこよなく愛する科学哲学者が、新たな歴史的事実とエピソードの数々を発掘し、異端のノーベル賞受賞者たちの数奇な運命に迫る!

※本稿は、月刊誌『Voice』の連載(「天才の光と影 異端のノーベル賞受賞者たち」計12回)を継続したものです。

 

エリート一家に生まれた神童

ヴォルフガング・パウリは、1900年4月25日、オーストリア帝国のウィーンで生まれた。

パウリの祖父ヤーコブ・パーシェルスは、出版業界で大成功して幾つかの出版社を経営するようになったユダヤ人だが、ユダヤ教の熱心な信者ではなかった。先見の明があった彼は、ヨーロッパに反ユダヤ主義が蔓延する将来を見越して、1898年に一族の姓をユダヤ系の「パーシェルス」から「パウリ」に変更した。

ヤーコブの息子ヴォルフガング・パウリは、カレル大学医学部を優秀な成績で卒業し、23歳の若さでウィーン大学私講師になった。その後、医学部教授に昇格し、タンパク質の研究で世界的に知られるようになる。

彼は、1899年にカトリックに改宗し、カトリック教徒の作家ベルタ・シュッツと結婚した。その1年後に生まれた長男に、自分と同じ名前を付けたのである。

さらに彼は、ウィーン大学の同僚で尊敬する哲学者エルンスト・マッハに長男の「ゴッドファーザー(名付け親)」になってくれるように頼んだ。そこで、パウリのミドルネームは「エルンスト」となった。

 

正確性を求め機転の利く少年

パウリは、幼少期から言語能力が高く、何事に対しても正確性を求めた。彼が4歳のとき、母ベルタの妹エルナが散歩しながら「今、私たちはドナウ川の橋の上にいるのよ」と言ったところ、パウリは「叔母さん、それは違うよ。僕たちはウィーン運河の上にいる。ここからドナウ川に流れていくんだよ」と説明したという。

1906年9月に妹のヘルタが生まれると、パウリは自分が新たに知ったことを何でも妹に教えるようになった。彼女は、生涯にわたって兄パウリのことを尊敬し、彼が亡くなるまで、常に手紙の末尾に「お兄様のことが大好きな妹ヘルタより」と記している。

1910年9月、10歳のパウリは、ウィーンの名門校として知られるデブリング・ギムナジウムに入学した。彼はどの教科でも最優秀であるばかりでなく、機転が利いたので、同級生の人気者だった。とくに彼が得意なのは、先生に綽名を付けることだった。パウリが上級生の頃、教師の中に、身長が低く、生徒が大騒ぎしていると突然集団の中から現れて大声で注意する先生がいた。パウリが彼に付けた綽名は、「Uボート」だった!

パウリが12歳のとき、ミュンヘン大学の著名な物理学者アルノルト・ゾンマーフェルト【本連載第6回参照】が相対性理論について講演するためにウィーン大学を訪れた。すでに大学レベルの微分積分学や力学を自力で修得していたパウリは、父親の紹介によって、特別に大学生の間に交じって講演を聴くことができた。

講演終了後、ゾンマーフェルトは際立って年の若い少年に「君は私の話を理解できたかね」と尋ねた。パウリは「よく理解できましたが、黒板の右上の式だけはわかりませんでした」と答えた。その式を見上げたゾンマーフェルトは、「何ということだ。私としたことが、この式は間違っているじゃないか!」と叫んだという。

 

ミュンヘン大学とヒトラー

1918年9月、18歳のパウリはドイツのミュンヘン大学に入学した。すでにパウリの才能をよく知っているゾンマーフェルトの指導を受けるためである。パウリは、さっそく最初の2年間に相対性理論に関する3編の論文を完成させて、ゾンマーフェルトを唸らせた。

1920年になると、ゾンマーフェルトは「もはや私が君に教えることはなくなった」と言って、パウリを一人前の研究者として扱うようになった。朝が苦手なパウリは、夜をビヤホールやキャバレーで過ごし、夜中に集中して論文を書き、大学に出てくるのは昼過ぎか夕方だったが、ゾンマーフェルトはパウリの自由にさせた。

この年にミュンヘン大学に入学してきたのが、パウリより1歳年下のヴェルナー・ハイゼンベルク【本連載第6回参照】である。後にハイゼンベルクは、パウリから「君はまったくのバカだ」と何度も罵られたにもかかわらず「パウリの批判は常に有益だった」と述べている。二人の天才は親友になり、その後の生涯にわたって文通を行なった。ハイゼンベルクが不確定性原理を発見できたのは、パウリのアドバイスのおかげだという説もある。

このころ、ゾンマーフェルトは『数理科学百科事典』の編集委員を務め、「相対性理論」の項目を担当していた。驚くべきことに、彼はこの解説論文を共著で書こうではないかと大学2年生のパウリを誘っている。その後、ゾンマーフェルトは、「私よりも君のほうが適任だ」と言って仕事を丸投げしてしまったため、結果的にパウリが単独で解説論文を書き上げることになった。

さて、一般に冷静で寡黙な市民が多い北ドイツのベルリンと違って、南ドイツのミュンヘンの市民は、明るく情熱的な気質だといわれる。この年の2月に「ナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)」を結成したアドルフ・ヒトラーも、ミュンヘンを拠点にしていた。

1920年4月27日、30歳になったばかりのヒトラーは、ミュンヘンのビヤホール「ホーフブロイハウス」で1200人の聴衆を前にして、経済破綻した共和制ドイツを立て直すためには「天才的な独裁者が必要だ!」と、芝居がかった身振りを交えて叫んだ。

ビヤホールの聴衆は、仕事帰りのサラリーマンや販売店員や学生であり、その4分の1は女性だったという。彼らは、政治集会というよりは、「おもしろい見世物」を楽しむ感覚でビヤホールに立ち寄っていた。

1920年の1年間だけで、ヒトラーは50回近く公開集会で演説している。8月13日のビヤホールの集会では、2000人の一般大衆を前にして、「なぜ我々は反ユダヤ主義なのか」を演説した。彼の演説は、2時間の間に58回も拍手と歓声で遮られたという記録がある。毎夜のようにビヤホールに立ち寄っていたパウリも、ヒトラーの演説を何度か聴いていたに違いない。

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著者紹介

高橋昌一郎(たかはし・しょういちろう)

國學院大學教授

1959年生まれ。ミシガン大学大学院哲学研究科修了。現在、國學院大學文学部教授。専門は論理学、科学哲学。主要著書に『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』(以上、講談社現代新書)、『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』『新書100冊』(以上、光文社新書)、『愛の論理学』(角川新書)、『東大生の論理』(ちくま新書)、『小林秀雄の哲学』(朝日新書)、『哲学ディベート』(NHKブックス)、『ノイマン・ゲーデル・チューリング』(筑摩選書)、『科学哲学のすすめ』(丸善)など多数。情報文化研究所所長、Japan Skeptics副会長。

X(旧 Twitter):https://twitter.com/ShoichiroT

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