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【天才の光と影 異端のノーベル賞受賞者たち】第15回 ライナス・ポーリング(1954年ノーベル化学賞、1962年ノーベル平和賞)

2023年04月03日 公開

高橋昌一郎(國學院大學教授)

 

カリフォルニア工科大学と留学

1920年、カリフォルニア州パサデナの大富豪エイモス・スロープが1891年に創設した「スロープ大学」は、東部ボストンの「マサチューセッツ工科大学」に並ぶ世界的大学に改革することを意識して「カリフォルニア工科大学」と名称を変更した。

カリフォルニア工科大学の理事会は、シカゴ大学の物理学者ロバート・ミリカンとマサチューセッツ工科大学の化学者アーサー・ノイズを最高級の待遇で招致した。

この著名な学者2人が中心となって最先端の研究機器を設置し、世界各国から優秀な研究者を招いて、カリフォルニア工科大学を現在の世界有数の大学に押し上げたわけである。

ポーリングは、オレゴン農業大学の全科目平均100点満点中94.29点と抜群の成績で卒業した。しかも、その平均点を大きく下げたのはアルバイトで忙しかったため単位を落とした「体育」で、それ以外はほぼ最高点しか取っていない。

彼は、奨学金で授業料を全額免除すると好待遇を示したカリフォルニア工科大学の大学院に進学することにした。

ポーリングは、ハーバード大学とカリフォルニア大学バークレー校の大学院にも合格していたが、カリフォルニア工科大学を選んだもう一つの理由は、アメリカ化学界を代表し「アーサー王」という綽名で知られるノイズから「君に大いに期待している」という直筆の手紙が届いたことだった。

その手紙には、ちょうどノイズが執筆を終えたばかりの338ページに及ぶ大学院生用の『化学原理の上級コース』の草稿が添付されていた。ノイズの手紙には、この草稿は大学院に進学する前では理解が難しいかもしれないが、とりあえず読んでみて、できれば各章末にある演習問題を幾つか解いてみるといいだろうというアドバイスがあった。

1922年9月、ポーリングはカリフォルニア工科大学のノイズの研究室を訪れた。彼は「教科書を読破しました。すばらしい教科書ですね」と褒めて、その上で改善する方がよいと思う点を幾つか理路整然と述べた。

さらにポーリングは「合計500問ありましたが、演習問題すべてを解いてきました」といって、レポート用紙の束を渡した。ノイズは、その解答がすべて完璧であることを見て驚愕し、ポーリングが天才であることを確信したという。

1923年6月1日、ポーリングはエヴァと結婚した。パサデナで幸福な新婚生活が始まり、1925年3月10日、長男ライナス・ポーリング・ジュニアが生まれた。この年の7月、ポーリングは「X線結晶解析」の研究により、「最優等」の称号とともにカリフォルニア工科大学より物理化学の博士号を取得している。

1926年3月、グッゲンハイム奨学金を取得したポーリングは、エヴァと共にミュンヘン大学に向かった。一緒に旅行をするのは無理なので、夫妻は生まれたばかりの息子をエヴァの母親ノラに預けた。

ミュンヘン大学では、アルノルト・ゾンマーフェルト【本連載第6回参照】と「行列力学」を公表したばかりのヴェルナー・ハイゼンベルク【本連載第6回参照】の演習に参加した。

さらにヨーロッパ各地を巡り、ハイゼンベルクに対して「波動力学」を公表したエルヴィン・シュレーディンガー【本連載第10回参照】や「量子論の父」ニールス・ボーア【本連載第5回参照】の講演も聴いている。

この年の7月、母親ベルの面倒を見ていた妹ルシールから手紙が届いた。ベルは悪性貧血が悪化して妄想に支配されるようになり、45歳の若さで精神病棟で亡くなったというのである。

ポーリングは、エヴァとの結婚に猛反対された時点で、ベルとは絶縁状態になっていた。さすがに大きなショックを受けたようだが、これでポーリングは、ようやく長年の母親の呪縛から逃れることができたともいえる。

 

ノーベル化学賞と平和賞

1927年9月、26歳のポーリングはカリフォルニア工科大学化学工学科の助教授に就任した。その後の4年間に異様なほどの集中力で量子力学を応用した「量子化学」に関する論文を50編も発表し、1931年に30歳で教授、1937年には36歳で化学工学科の学科長に就任する。

この間に次男、長女、三男も続けて生まれ、ポーリングとエヴァは4人の子どもたちと仲睦まじく暮らした。ポーリングの前半生の悲惨さと比べると、いかに後半生が幸福な生活か、よくわかる。

1939年、ポーリングはそれまでの化学結合に関する研究業績を『化学結合の本性および分子の結晶構造』として出版した。この論文は、20世紀の化学界で最も引用された文献となった。

これらの業績が基盤となって、ポーリングは1954年度、「化学結合の本性および複雑な分子の構造の研究」によりノーベル化学賞を受賞した。

1943年、カリフォルニア工科大学物理学科の同僚ロバート・オッペンハイマーが、原子爆弾を開発するロスアラモス国立研究所の初代所長に任命された。オッペンハイマーは、原爆製造研究の化学部長としてポーリングを招聘したが、ポーリングは「自分は平和主義者だから」といって断っている。

この頃からポーリングは公然と反戦を主張するようになり、1952年には合衆国国務省から「国外渡航禁止命令」が出て、パスポートを没収されてしまう。1954年に勃発したベトナム戦争にも猛反発して、全米各地の大学で世界平和の必要性を訴える講演活動を行った。

1958年には『もう戦争はいらない』を出版した。この年には、アメリカ科学アカデミーの会長として、世界中の科学者1万1000名の署名を集めた「核実験停止の嘆願書」を国連事務総長に提出している。

一方、カリフォルニア工科大学の理事会は、ポーリングの政治的発言を問題視したため、この年に彼は化学工学科長を辞任している。

1963年8月5日、合衆国のジョン・F・ケネディ大統領とソ連のニキータ・フルシチョフ書記長が「大気圏・宇宙空間および水中における核兵器実験を禁止する条約」に署名した。

この条約が発効された10月、ノーベル委員会は「核兵器実験・軍備拡大・国際紛争の武力衝突に反対する活動を絶え間なく続けてきた」功績により、ポーリングにノーベル平和賞を授与した。この授賞式の後、世界中の大学生が集まったパーティで、彼は次のように述べている。

「立派な年長者の話を聞く際には、注意深く敬意を抱いて、その内容を理解することが大切です。ただし、その人の言うことを『信じて』はいけません! 相手が白髪頭であろうと禿頭であろうと、あるいはノーベル賞受賞者であろうと、間違えることがあるのです。常に疑うことを忘れてはなりません。いつでも最も大事なことは、自分の頭で『考える』ことです」

 

ビタミンCへの妄信

まさにポーリング自身の発言通り、晩年のポーリングは、ビタミンCが体内の「分子矯正」を行うという奇妙な主張を行うようになってしまった。

1970年に彼が発表した「ビタミンCと風邪」によれば、「ビタミンCの分子矯正によって風邪を予防」できるという。

1979年に彼がイギリスのヴェール・オブ・リーベン病院の外科医ユーアン・キャメロンと共著で発表した論文「ビタミンCと癌」には、末期癌もビタミンCの大量摂取で改善できるという記載がある。ただし、これらの主張は、追試で明確には認められていない。

1978年、エヴァが胃癌になり、手術を受けた。その後、彼女は夫のビタミンC療法を信じて毎日ビタミンCを大量摂取したが、1981年12月7日、再発した癌により逝去した。

それでもビタミンCの効果を信じて疑わないポーリングは、1986年に『いかに気持ちよく長生きするか』というビタミンC大量摂取を勧める書籍を上梓している。

1994年8月19日、93歳のポーリングは、太平洋を見下ろすカリフォルニア州ビッグサーの自宅で、4人の子どもたちと15人の孫に見守られながら、癌のため逝去した。

 

著者紹介

高橋昌一郎(たかはし・しょういちろう)

國學院大學教授

1959年生まれ。ミシガン大学大学院哲学研究科修了。現在、國學院大學文学部教授。専門は論理学、科学哲学。主要著書に『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』(以上、講談社現代新書)、『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』『新書100冊』(以上、光文社新書)、『愛の論理学』(角川新書)、『東大生の論理』(ちくま新書)、『小林秀雄の哲学』(朝日新書)、『哲学ディベート』(NHKブックス)、『ノイマン・ゲーデル・チューリング』(筑摩選書)、『科学哲学のすすめ』(丸善)など多数。情報文化研究所所長、Japan Skeptics副会長。

X(旧 Twitter):https://twitter.com/ShoichiroT

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