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【天才の光と影 異端のノーベル賞受賞者たち】第15回 ライナス・ポーリング(1954年ノーベル化学賞、1962年ノーベル平和賞)

2023年04月03日 公開

高橋昌一郎(國學院大學教授)

量子化学を確立し、核廃絶を提唱し、ビタミンCを妄信した天才


ライナス・ポーリング 1962年

どんな天才にも、輝かしい「光」に満ちた栄光の姿と、その背面に暗い「影」の表情がある。本連載では、ノーベル賞受賞者の中から、とくに「異端」の一面に焦点を当てて24人を厳選し、彼らの人生を辿る。

天才をこよなく愛する科学哲学者が、新たな歴史的事実とエピソードの数々を発掘し、異端のノーベル賞受賞者たちの数奇な運命に迫る!

※本稿は、月刊誌『Voice』の連載(「天才の光と影 異端のノーベル賞受賞者たち」計12回)を継続したものです。

 

本好きな「普通の子ども」

ライナス・ポーリングは、1901年2月28日、アメリカ合衆国オレゴン州ポートランドに生まれた。

オレゴン州は、太平洋岸に沿って北のワシントン州と南のカリフォルニア州に挟まれた自然の景観豊かな土地である。居住者の多くはドイツ・イングランド・ウェールズ・アイルランド・スコットランドといった北西ヨーロッパ出身の白人で、現在もリベラルな政治的志向性の強い州として知られる。ポートランドは、その州都である。

ポーリングの父親ハーマンの家系は、プロシアの農家にまで遡る。ハーマンの祖父母がミズーリ州コンコルディアのドイツ人居留地に移住し、父母の代にカリフォルニア州を経てオレゴン州オスウィーゴに移り住んだ。鋳物工の父親の元に生まれたハーマンは、中学校を卒業するとポートランドの薬問屋の店員として奉公に出た。

さまざまな薬の効能を覚えて機転の利くハーマンは、ボストンバッグに薬を詰めて行商に出るようになった。24歳になった年、ハーマンはユニオン・パシフィック鉄道コンドン支線の終点にあるコンドンという最南端の開拓村に到着した。

そこで彼は、村のパーティで18歳の「ベル」と呼ばれる快活なルーシー・ダーリングと出会い、恋に落ちた。ベルの父親は、開拓村の住民から尊敬される郵便局長兼判事である。

出会いから半年後に開かれたハーマンとベルの結婚式には、村人ほぼ全員が集まって祝福した。女性たちは皆、開拓村から大都会のポートランドに出ていけるベルを羨んだという。

結婚式から9カ月と1日後、ポーリングは生まれた。周囲は早産であることを心配したが無事に生まれ、「9カ月と1日赤ちゃん」と呼ばれて可愛がられた。

努力家のハーマンは、行商の合間に薬学を学んで薬剤師の資格を取得し、生まれ故郷のオスウィーゴに薬局を開業した。ウィラメット川とトゥアラティン川に挟まれたオスウィーゴには美しい湖があり、今では「レイク・オスウィーゴ」と呼ばれる高級住宅地になっている。

しかし、ハーマンが薬局を始めた当時、オスウィーゴには開拓者の農場や鉄工場が散在するだけで、1人だけいた医者でさえ都会に逃げ出してしまっていた。

ハーマンは、寝たきりの病人の家を訪ねては薬を処方し、食事の助言を与え、薬の効き目を確認した。彼の診断は、どんな医者にも負けないと評判で、しかも薬の代金以外は受け取らなかったため、多くの村人から感謝された。

ポーリングが3歳のとき、長女ポーリーン、さらにその翌年には次女ルシールが生まれた。商売が順調に進んだハーマンは、妻の生まれ故郷コンドンにも薬局を開店した。

開拓村の小学校では、全学年が一緒に授業を行い、しかも教師を務めたのは村の主婦である。

小学校時代のポーリングとよく遊んでいた従弟のマーヴィンは、「彼は、普通すぎるくらい普通の子どもだった。とくに優等生だったわけではないし、運動神経は鈍くないが、スポーツが得意だったわけでもない。何かが特別にできたという印象はないが、時間があるといろいろな本を読んでいたことは覚えている」と証言している。

 

父親の死と極度の貧困

8歳のポーリングが、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』やダンテの『神曲』を読んでいるのを見た父親ハーマンは、大いに喜んだ。苦労して独学で薬学を修得した彼は、学問の重要性を十分すぎるほど理解し、息子に惜しみなく本を買い与えた。

ハーマンがオレゴン地方新聞の読者欄に「ダーウィンの進化論を読み終えて自然科学と歴史に興味を持つようになった小学生には、どのような書籍を薦めたらよいのでしょうか」と投書した記録も残っている。彼が、いかに息子の知的好奇心を大切にしていたか、よくわかる。

ところが、1911年6月11日、33歳のハーマンは突然血を吐いて倒れ、そのまま亡くなってしまった。死因は、穿孔性胃潰瘍(せんこうせいいかいよう)である。家族のために精力的に働きすぎた過労が、大きな原因だったのかもしれない。

9歳の息子と6歳と5歳の娘を抱えた27歳の未亡人ベルは、途方に暮れた。彼女の父親も、その前年に亡くなったばかりで、周囲には頼りになる男性がいなかった。

後にポーリングは、「父が死んで、母は自分を見失ってしまった。葬儀に向かう途中の汽車の中で、取り乱した母がヒステリーの発作を起こし、私たちはとても気まずい思いをした」と述べている。

ベルは、亡き夫の薬局を処分し、夫が加入していた生命保険金を受け取り、全財産をはたいてポートランドのホーソン地区の下宿屋を購入した。1階に彼女と子どもたちが暮らし、学生や会社員らの下宿人に食事を提供して、その家賃で生活することにしたわけである。

それまで外で働いたことのないベルは、幼い子どもたちのために考え抜いた上でこの仕事を選択した。ところが、下宿屋を始めて数カ月後、彼女も過労のため「悪性貧血」で倒れてしまう。結果的に家政婦を雇わざるを得なくなり、次第に生活は困窮に陥っていった。

9歳のポーリングにとって、最大の理解者だった父親を失ったことがどれだけ大きな衝撃だったのか、本人の自伝にはとくに何も記されていない。何も記されていないことが、逆にその計り知れなさを表しているようにも思える。

明確にわかっていることは、9歳以降のポーリングが異様なほど勉学に打ち込むようになり、とくに父親が大事だと力説していた数学と自然科学の授業ではトップの成績を維持し続けたことである。結果的に、彼は大幅な飛び級で中学校を卒業し、弱冠12歳でワシントン高等学校に入学することになった。

この時期にポーリングの親友になったのが、ロイド・ジェフリースである。ロイドは、両親が離婚したため、裕福な叔父の家で暮らしていた。子どものいない叔父夫妻は、甥ロイドと同様にポーリングを温かく迎え入れてくれた。

2人の高校生は、ジェフリース家の地下室を化学実験室に改良して、さまざまな実験を行った。ポーリングの才能を見抜いて「君は絶対に大学に進学して、将来は学者になるべきだ」と勧めたのがロイドである。なお、ロイド自身も、後に心理学者になっている。

ところが、ポーリングの母親ベルは、学問にまったく興味がなかった。以前は快活だった彼女が、下宿の料理や掃除に追われて憂鬱な表情になり、少し疲れると悪性貧血の症状が出て寝込んでしまう。

彼女は、家族で唯一の男性であるポーリングに「早く高校を卒業して就職してほしい」と懇願した。それでもポーリングが大学に進学したいと告げると、ベルは「お母さんたちはどうすればいいの、私たちを見捨てるの?」といって激怒した。

高校入学以来、ポーリングは、新聞配達・牛乳配達・郵便配達を毎日こなし、週末にはボーリング場のピン並べや映画館の映写操作のアルバイトを行って母親ベルにかなりの金額を渡していた。それでも4人家族の生活はギリギリだった。

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著者紹介

高橋昌一郎(たかはし・しょういちろう)

國學院大學教授

1959年生まれ。ミシガン大学大学院哲学研究科修了。現在、國學院大學文学部教授。専門は論理学、科学哲学。主要著書に『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』(以上、講談社現代新書)、『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』『新書100冊』(以上、光文社新書)、『愛の論理学』(角川新書)、『東大生の論理』(ちくま新書)、『小林秀雄の哲学』(朝日新書)、『哲学ディベート』(NHKブックス)、『ノイマン・ゲーデル・チューリング』(筑摩選書)、『科学哲学のすすめ』(丸善)など多数。情報文化研究所所長、Japan Skeptics副会長。

X(旧 Twitter):https://twitter.com/ShoichiroT

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