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【天才の光と影 異端のノーベル賞受賞者たち】第15回 ライナス・ポーリング(1954年ノーベル化学賞、1962年ノーベル平和賞)

2023年04月03日 公開

高橋昌一郎(國學院大學教授)

 

オレゴン農業大学

1916年秋学期、15歳のポーリングは「アメリカ史Ⅰ」と「アメリカ史Ⅱ」を除いてすべての科目を履修し終えた。

数学と自然科学の科目群はどれも最優秀の成績で、すでにオレゴン農業大学化学工学科から入学許可を得ている。ただし、人文系の科目にはどうしても興味を持てないため、最後まで残してしまったのである。

ポーリングは、最後の学期に「アメリカ史Ⅰ」と「アメリカ史Ⅱ」を同時に履修したいと高校の校長に頼みに行った。しかし、校長は「アメリカ史Ⅰ」を履修したあとでなければ「アメリカ史Ⅱ」は履修できないカリキュラムであることを宣言して、即座に彼の希望を却下した。

大学に進学するための費用を稼がなければならないポーリングは、高校から卒業証書を受理することを諦めて、機械工場で1年間働くことにした。

毎朝6時15分に起きて、6時55分に家を出て、7時30分に工場に着く。作業着に着替えて、昼休みまで働き、30分の休憩時間にサンドイッチと牛乳の昼食を急いで取り、17時まで働く。

真面目な15歳の彼の勤務評価は非常に高く、月40ドルの見習い期間は1カ月で終わり、翌月からは月50ドルに昇給した。

翌年も働き続ければ、もっと昇給させるという工場長の言葉を聞いて、母親ベルは大喜びだった。しかしポーリングは、誰が何を言おうと大学に進学する覚悟を内心で決めていた。

1917年9月、16歳のポーリングは、それまでに自分で蓄えた200ドルを持ってオレゴン農業大学のある学園都市コーバリスに向かった。

唯一の息子を自分の手元から放したくない母親ベルは、最後まで彼が家を離れることに反対し続けた。

だが、ちょうどこの時期、彼女は、森林伐採の現場監督を務める男との再婚を周囲から勧められていたため、それ以上ポーリングに構う余裕がなかったようだ。なお、結果的に彼女はこの男と再婚したが、すぐに離婚している。

当時のオレゴン農業大学の授業料は、1学期(4カ月)16ドル、下宿代は1カ月25ドルなので、200ドルあれば当面は何の問題もなく暮らしていけるはずだった。

ところが、9月に入学してすぐに、ポーリングは同じ新入生のイレーヌという「コケティッシュな少女」に恋してしまう。母親の元から解放され、生まれて初めて自由な一人暮らしを始めたポーリングは、少女と一緒に映画やショーを観に行き、レストランで優雅に食事をする喜びを知った。

そのおかげで、10月30日の時点で、彼は200ドルの内150ドルを使い果たしてしまった。「このままではいけない」と反省したポーリングは、イレーヌに別れを告げた。

その後、彼は、授業時間以外を大学寮の雑用係のアルバイトに当てている。学生食堂の炊事用に薪を割り、4等分にされて運ばれてくる牛の肉を多量に切り分け、フロア中にモップを掛ける。

月に100時間働いたが、時給25セントなので25ドルにしかならない。彼は下宿での夕食を断り、キャンパス食堂の安い食事1回で1日を済ますことにした。

驚くべきことに、これほど悲惨な生活環境であるにもかかわらず、ポーリングは、大学のすべての科目で常に最優秀の成績を取っていた。

当時の同級生は「ライナスは、よく化学事典を読んでいた。読むというよりも眺めているだけで、あらゆる知識が彼の頭脳に吸い込まれていくようで不思議だった」と述べている。

ポーリングが2年次を終えた夏、母親ベルが再び悪性貧血で倒れてしまった。彼女は、息子に大学を1年間休学して働いてほしいと泣きついてきた。

ポーリングは、7月から8月の夏期休暇中、道路舗装会社で働いていた。オレゴン南部の幹線道路でアスファルト舗装の状態を検査する作業である。キャンプで移動しながら行う労働で、食事はすべて支給され、月給は125ドルと高額だった。

彼は、そのほとんどを母親ベルに送っていたが、彼女は、その仕事をもう1年続けてほしいと頼んだのである。彼女からすれば、できれば大学を辞めて、そのまま道路舗装会社に就職してほしかったようだ。

 

大学講師兼任の大学生

ポーリングが、大学を1年間休学して道路舗装会社に勤めるつもりだと化学工学科の指導教授サミュエル・グラフに告げると、グラフは大いに残念がった。

その前年に教えた「定量分析」の授業で、ポーリングがかつて見たことがない抜群の理解度を示し、ポーリングの化学に関する知識がすでに自分を上回っていることを知っていたからである。

そこでグラフは、奇想天外なアイディアを思いついた。1918年に勃発した第1次世界大戦の影響で化学科の若い講師が召集されたため、講師職に空きがあった。グラフ教授は、そのポストを、大学2年次を終えたばかりのポーリングに与えたのである!

1919年9月から1年間、ポーリングは大学を休学して大学の講師に就任し、自分が受講し終えたばかりの「定量分析」をはじめとする授業を受け持った。講師職の月給100ドルはすべて母親ベルに送金し、時間外に課題添削や実験室準備のアルバイトで得た金で生活した。

その翌年、復学したポーリングは、再び大学生として授業を履修し、卒業に必要な単位をほとんど取得した。4年次に再び講師の欠員が出ると、ポーリングは急遽、新入生の「化学概論」の授業を受け持つことになった。

大学生でありながら大学講師でもある「大学講師兼任の大学生ポーリング」は、すでに大学中の評判になっていた。

その最初の授業で、ポーリングは、最前列に座る「息を飲むほど可愛らしい」エヴァ・ミラーと出会った。「ミラー君、水酸化アルミニウムについて知っていることを話してくれますか」と指名すると、彼女は詳しく答え、しかもその答えは正確だった。

学期が進むにつれて、彼女が美しいばかりでなく聡明でユーモア・センスがあり、ポーリングに好意を抱いているらしいことがわかってきた。ポーリングは、悩んだ。大学4年生としての彼が新入生をデートに誘っても普通の出来事だが、大学講師としての立場では問題になる。

学期が終わりに近づいてきたある日、ポーリングは授業の最初に課題を返却する際、エヴァにメモを渡した。「数年前、本校で、学生に恋した講師が非難に晒された事件があった。私は、そんな事件を起こすつもりはない!」(もちろん彼は、そんな事件を起こしそうなくらい彼女のことが気になっていると、英語圏に特徴的な正反対の言明で暗示している)。

授業後、エヴァが教壇の前に駆けてきて、目に涙をためて怒った表情で「私は、先生から化学以外のことを教えてもらおうなんて思っていません!」(もちろん彼女は、化学以外のことを教えてほしいと思っている)といった。

その姿を見て決心したポーリングは「歩きながら話そう」といって、一緒に校門に向かった。

大学構内を2人で歩くということは、人目を気にせずに2人が交際することを意味する。ポーリングは、それから数日後、エヴァにプロポーズした。

彼がエヴァと腕を組んで化学研究室に挨拶に行くと、グラフ教授が「君はライナスと結婚するつもりかね?」と尋ねた。彼女は「もちろんです。私たちは、たくさん子どもを作るつもりです」といって、グラフ教授を仰天させた。

エヴァ・ポーリング 1923年

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著者紹介

高橋昌一郎(たかはし・しょういちろう)

國學院大學教授

1959年生まれ。ミシガン大学大学院哲学研究科修了。現在、國學院大學文学部教授。専門は論理学、科学哲学。主要著書に『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』(以上、講談社現代新書)、『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』『新書100冊』(以上、光文社新書)、『愛の論理学』(角川新書)、『東大生の論理』(ちくま新書)、『小林秀雄の哲学』(朝日新書)、『哲学ディベート』(NHKブックス)、『ノイマン・ゲーデル・チューリング』(筑摩選書)、『科学哲学のすすめ』(丸善)など多数。情報文化研究所所長、Japan Skeptics副会長。

X(旧 Twitter):https://twitter.com/ShoichiroT

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