繰り返すが、ロシアはヤルタ密約を北方四島領有の最大の根拠としてきた。しかし、筆者が英国立公文書館で確認した76年前のヤルタ密約「草案」原本(FO371/54073)には、その論拠が成り立たないことが示されている。
この英語で書かれた「草案」原文の文頭には、英語の手書きで「Handed by Mr. Molotov to the Secretary of State 10 Feb.(2月10日 モロトフ〔外相〕から国務大臣に手渡される)」とメモ書きされており、ソ連側が作成して米英に渡したことを示している。
ここで注目したいのは、ソ連がドイツ降伏後、2カ月から3カ月で対日参戦し、その条件として、(1)外蒙古の現状維持、(2)日露戦争で失った領土と権利の回復、(3)千島列島の引き渡し、に分けられ、(2)のaでは南樺太はソ連に「返還される(should be returned)」とする一方、(3)千島列島は「引き渡される(should be handed over)」(ロシア語で「ペレダーチャ」)と、違う表現になっていることだ。
南樺太と千島列島の領有を要求する草案を作成したソ連のスターリンが、日露戦争で日本が譲り受けた南樺太はソ連に「返還される」とし、日本領だった千島列島は一貫して「引き渡される」としたのは、旧ロシア領ではない千島列島の割譲が領有の法的根拠に乏しく、大西洋憲章やカイロ宣言で禁じた領土拡大に該当するという議論が起きることを懸念したからだろう。
そこで「返還」ではなく、あえて「引き渡し」と表現を変えたと見られる。そのように書き分けた文面に、スターリンが深慮遠謀を施した形跡がうかがえる。
ヤルタ会談の準備協議まで、スターリンは帝政ロシアが占有していなかった領土については要求しないと印象づけていたが、ヤルタ密約の「草案」で示した千島列島の「引き渡し」は、米英との最終合意案にそのまま記されたほか、「秘密協定が日本降伏後に実現されるように三巨頭が確約した」との一文を含めさせられた。
ソ連側に譲歩しすぎではないかと、再考を促したハリマン駐ソ米国大使に対し、ルーズベルトはソ連の対日参戦の利益に比べれば、千島列島は小さな問題であるとして、これを退けたという。ソ連の対日参戦を優先させたルーズベルトがスターリンの領土拡大の野望を受け入れた結果、現代につながる北方領土問題が生じた。
ヤルタ会談当時、アルバレス病(動脈硬化に伴う微小脳梗塞の多発)で覇気を失っていたルーズベルトの体調はすでに正常な判断ができないほど悪化していた。ヤルタ会談の2カ月後、ルーズベルトは死去するが、スターリンはこうしたルーズベルトの健康状態を正確に把握していた。
ルーズベルトの周辺には200人を超すスパイや工作員が潜入していたことが、米国家安全保障局(NSA)の前身である米陸軍情報部と英ブレッチリー・パークが共同でソ連の暗号を傍受・解読した「ヴェノナ文書」によって判明している。
ルーズベルトの側近として、ヤルタに同行したステティニアス国務長官の首席顧問、アルジャー・ヒスもその一人である。ヒスがソ連の軍参謀本部情報総局(GRU)のエージェント(スパイ)であったことは、英国立公文書館所蔵のMI5の秘密文書(KV2/3793)でも裏づけられている。
MI5が1956年に作成した「ソビエト・インテリジェンス・アルバム」にはヒスの名前や職歴などが記されており、ソ連のスパイ活動を行なっていたと見なされていた。
ヒスは、ソ連の国家保安委員会(KGB)の前身、内務人民委員部(NKVD)の在米責任者、ボリス・ブコフ大佐がアメリカ政府内に構築したエージェントの一人であった。
国務省内でヤルタ会談の準備を担当し、事前にアメリカ政府の立場に関する最高機密ファイルに目を通し、ヤルタ協定の「草案」作成にも関わった。会談前に米国務省は千島列島を調査し、1944年12月に「南千島(歯舞、色丹、国後、択捉の四島)は日本が保持すべき」との極秘報告書を作成したが、ルーズベルトが読んだ形跡がない。ルーズベルトの側近であったヒスによって、会談前に参考にすべき文書から除外されたとする見方が有力だ。
「ワシントン・ポスト」紙の元モスクワ特派員マイケル・ドブズ氏の著書『ヤルタからヒロシマへ』によれば、奇妙なことに、この極秘報告書はモスクワに渡り、スターリンがむさぼり読んでいたことが、ソ連側の公開文書で判明しているという。
更新:11月22日 00:05