なぜヤルタ密約において、千島列島は「返還される」ではなく「引き渡される」と表現されたのか。そこには旧ロシア領ではなく、法的に領有の根拠に乏しい千島列島の割譲を確実なものにしたいというスターリンの思惑が隠されていた。さらにその背後には、ルーズベルトの周囲で暗躍するソ連スパイの存在があった。
※本稿は、岡部伸著『第二次大戦、諜報戦秘史』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。
ロシアでは2020年7月、憲法に領土割譲を禁じる条項が盛り込まれた。以来、2021年6月にロシア軍が北方領土で演習を行なったり、同年七月には国後島海域で射撃訓練を行なうと通告したうえで、ミハイル・ミシュスチン首相が択捉島を訪れるなど、北方領土交渉をめぐる環境は悪化の一途を辿っている。ソ連時代からロシアが北方四島の領有を主張する最大の根拠がヤルタ密約である。
しかし、ヤルタ密約は連合国の首脳が交わしたものにすぎず、当事国の日本が関与しない領土の移転はそもそも国際法の「原則」に反している。日本政府は「当時の連合国の首脳間で戦後の処理方針を述べたもので、領土問題の最終処理を決定したものではなく、当事国として参加していない日本は拘束されない」(2006年〔平成18年〕2月8日、国会答弁)という立場であり、ソ連の法的根拠を認めない姿勢を示してきた。
2016年12月に、訪日したロシアのプーチン大統領は当時の安倍晋三首相との会談後の記者会見で、北方領土問題について「歴史的ピンポン(卓球のようなきりのないやりとり)」をやめるべきだと発言した。
プーチン氏は「択捉・得撫(うるっぷ)島間に国境を引いた1855年の日露和親条約(日露通好条約)に触れ、「日本は『南クリール列島』の諸島(北方四島)を受け取り、ロシア政府及び天皇陛下との合意に従い、プチャーチン提督は最終的にこれらの諸島を日本の管轄下に引き渡した。
なぜなら、それまでロシアは、これらの島々は、ロシア人航海者によって開かれたため、ロシアに帰属していると考えていた」と、北方四島がロシア固有の領土であると主張した。
しかし、日露和親条約の締結以前から、北方四島は日本の領土であり、一度たりともロシア領だったことはない。「日本は、ロシアに先んじて北方領土を発見・調査し、遅くとも19世紀初めには四島の実効的支配を確立した」(外務省)との立場である。
歴史的にも「ロシア人航海者によって開かれた」というプーチン氏の主張は事実ではない。
なぜなら筆者はイギリス赴任中、19世紀前半に英国王付きの地理学者が北方四島をまさに日本領として扱っていた地図を英国立公文書館で確認したからだ。1811年にアーロン・アロースミスが作製した「日本、クリール(千島)列島」と、1840年にジェームズ・ワイルドが作製した「日本、クリール(同)列島」の両地図である。
アロースミスの地図は、択捉以南の四島が北海道と同じ青色に塗られ、択捉島と得撫島のあいだに国境線が引かれたと認識できる。またワイルドの地図では、得撫島までが北海道と同じ赤色に塗られていた。
いずれの地図にも、北方四島近くに「Providence」との表記がある。これは、プロビデンス号で1796年に北海道に上陸し、北海道西岸を測量した英海軍士官、ウィリアム・ブロートンの探検結果を反映したものと見られる。
ブロートンは1804年に探検記録『A Voyage of Discovery to the North Pacific Ocean,1795‐1798』を著し、(択捉島に当たる)北緯45度25分までは「エゾ(日本領)」と記した。このためアロースミスらは、得撫島より南の択捉以下の四島は自然生態系上からも、北海道と同じと判断したと見られる。
更新:12月22日 00:05