2021年05月26日 公開
2021年07月29日 更新
1991年に旧ソ連が崩壊すると、西トルキスタンに当たる中央アジアの国々が独立、これに触発されるかたちで新疆のウイグル人たちの独立運動が活発化した。
90年代は、タリバンらイスラム原理主義派の影響を受けた過激なウイグルの若者たちによる武力抵抗が活発化した。中国側も容赦なく武力鎮圧し、無関係な市民を巻き込む凄惨な事件がいくつも起きた。1997年のグルジャ事件などはその典型といえる。
2001年に9・11(米国同時多発テロ)が発生し、米国がこれをイスラム過激派アルカイダによるテロ事件としてテロとの戦争を呼びかけたことで、中国共産党政権のウイグル人弾圧にも、「テロとの戦い」という口実を与えることになった。
このころのウイグル人による暴力事件の多くは、むしろ不当な経済搾取や一人っ子政策による強制堕胎への反抗など、漢族が起こす抗議運動や抵抗運動とさほど動機や手法は変わらなかった。
ところが、90年代の東トルキスタン独立運動の激しさを見てきた中国共産党政権は、庶民のこうした生活の不満からくる抗議運動、事件をもテロリズムだと断罪する傾向が強く、そのことがさらなる抵抗、反抗を呼んだ。
2009年の7・5ウルムチ事件は、広東省の工場におけるウイグル人リンチ殺人事件に対する司法の不公平な態度への抗議がきっかけだった。だが、武装警察がこの抗議デモを銃撃で鎮圧した。
新華社報道で192人の死亡が報じられ、その後、デモに参加した容疑などで1453人以上が逮捕、少なくとも9人が処刑された。この事件直後、ウルムチに住む若いウイグル人男性は、ほとんど手当たり次第に何の証拠もなしに連行され、二度と帰ってこなかった人も多かったという。
当時の胡錦涛政権は、この事件の本当の責任が新疆ウイグル自治区の書記である王楽泉にあるとみていた。その汚職体質が引き起こしたウイグル人搾取と貧富の差が原因であるとみて、後任書記の張春賢に融和的政策を指示したが、ウイグル人の暴力的抵抗事件がむしろ増え、現在の習近平らが胡錦涛政権の弱腰がウイグル人をつけあがらせた、と批判する口実となった。
習近平政権は、ウイグル人すべてがテロリスト予備軍であり、再教育が必要だという考えのもと、ウイグル人監視と洗脳を強化、最終的には陳全国という子飼いの部下をウイグル自治区の書記に任命し、種族絶滅ともいえる激しい管理政策を実施、いまに至るわけだ。
更新:11月22日 00:05