2021年02月04日 公開
2021年07月20日 更新
これは幕末だと、桁外れの英明さで知られた薩摩藩主の島津斉彬、また幕府側では勝海舟などがそれに相当する。
島津斉彬などは「将来西欧と東洋はマレー付近で海戦を行なうことになる」として、のちの戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」撃沈で知られるマレー沖海戦を予言したといわれている。
彼らの突出した発想力は、通常なら日本社会では到底受け入れられない性質のものだったが、それが他のタイプとの連携によって、国の針路の中心となることが可能になったのである。
また戦国の場合だと、理系的な合理性と独創的な先進性において、織田信長がこれに相当することには、誰しも異論はないと思われる。
このタイプは、自身はそこまで独創的ではなく、また性格的にも革命家ではないが、第1タイプの考えやその価値を十分理解でき、その一方で組織のなかで浮き上がらずにちゃんと生きていけるだけの順応性も備えている人びとである。
たとえば、勝海舟をとり上げると、幕府官僚だった大久保一翁が「開明派官僚」に相当し、海舟は彼の推挙によって活躍の場を得ることができた。
また薩摩藩だと、やはり地味だが若手官僚の小松帯刀が、斉彬亡きあとに藩組織と維新派の仲介役を務めたという点でそれに相当し、薩摩が組織的に上下一体となって維新に参加するためには、彼の存在は不可欠なものだったといえる。
また戦国時代においては、石田三成や大谷吉継などがこれに相当する。幕末期に比べると戦国初期での第2タイプの貢献はさほどでもなかったが、後期になると、計数に巧みな彼らが豊臣政権にとって不可欠な存在だったことは確かである。
一方において、日本の数倍の国力をもつ大国に勝つには、一種の下支えとして、西欧技術を学んだ大勢の技術者が不可欠であった。幕末の場合、それを育成確保するための主力となったのは、幕府の制度的な機関よりも、むしろ各地に私的なかたちで生まれた蘭学塾だった。
もっとも代表的なのは緒方洪庵の適塾で、福沢諭吉や大村益次郎などがここの出身であることをみても、明らかに幕府の公的な教育機関よりもこちらのほうが人材育成の主役である。そして、各地で自発的に学んだ大勢の無名の学徒たちが、量的な面で理数系武士団を支えていたのである。
また戦国時代だと、各地の無名の鉄砲鍛冶などが、自発的にいろいろな場所を渡り歩いて技術を習得していった経験が鉄砲の発達に大きく影響していた。
その結果として、戦国末期には日本全体の鉄砲保有数は全ヨーロッパの合計を上回って世界最大の鉄砲保有国になっていたともいわれ、こうしたことは他のアジア諸国ではほとんどみられない現象である。
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更新:11月22日 00:05