2021年02月04日 公開
2021年07月20日 更新
異分野である物理学者が書いた話題作『現代経済学の直観的方法』――著者の長沼伸一郎氏はコロナ後の日本は歴史を振り返ればわかるという。物理学者が壮大なスケールで描き出す、コロナ後の人類、そして日本の道筋を示す。連載第一回は、日本が国難を乗り越えた秘訣を紐解く。
※本稿は『Voice』2021年1⽉号より⼀部抜粋・編集したものです。
世界史を考える上で、資源に乏しい小国である日本の武器は「国民が勤勉であること」などと捉えられることが多い。しかし、その見方は甚だ疑問である。
じつはよく考えると、その武器一つだけでは、たとえば歴史家アーノルド・トインビーのいう「日本はトルコ以東において西欧帝国主義の侵略を免れた唯一の国である」という歴史の歩みが現実になり得たとは考えにくいのである。
なぜならば、戦略の原則からすると、「勤勉さによる戦力強化」というのはせいぜい1.5倍あたりまでの拡大が限度なのである。しかし過去の歴史で日本が列強と遭遇したとき、英、仏、ロシアなどのいずれの国の国力もおそらく日本の数倍はあり、1.5倍の差を埋めても到底追いつかない。
もっと根本的なところから話をすると、戦略の原則では一般的に、組織の力を「戦闘力と戦略力の積」として考えるのが普通である。
前者の「戦闘力」とは、図体の大きさや兵力・練度など、純然たる体力面での力を指し、一方後者の「戦略力」というのは、優れた戦略によって優位なポジションを得るなどの知的な力を指す。
そして「勤勉さ」は前者に属する力であり、先述したようにこれらはすぐには1.5倍ぐらいの力にしか拡大できない。それに対して後者は、戦略が巧みなら一挙に2倍3倍にすることも可能である。
つまりこの理屈からすれば、当時の日本が数倍の相手に対峙してそれを乗り切るためには、「戦闘力」の力よりむしろ「戦略力」の力がメインでなければならず、その面で他国がもたない何らかの資質をもっていることが必要だったはずなのである。
それでは、かつての日本では一体何が起こっていたのだろう。そしてここに一つ、その謎に対する答えがある。それは、日本の歴史においては、国難の折に「理数系武士団」と呼ぶべき集団がまとまって出現し、彼らが、国が普段はもたないような大きな力を与えていたのではないか、ということである。
ただしそれは、言葉から一見想像されるように、「モノづくりの力を国のために活かす」という意味ではない。むしろそれらの人びとが、狭い理系の専門分野から脱し、国が進むべき戦略などに関して、これまでの文系的な一般常識を超えた独創的なビジョンを生み出すことで、国を先導する役割を果たしたということである。
それはとくに幕末と戦国時代において顕著であり、彼らの力が結果的に、先ほどのトインビーの言葉のような歴史を現実のものにしたと思われるのである。
理系集団と武士の関連性というのは一見唐突だが、じつは両者の密接な関連を示すものは多い。蘭学者で医者として生きていた大村益次郎が、長州藩の参謀として日本最初の近代戦で武士たちを指揮し、靖国神社にも銅像が建っているのはその実例である。
そもそも日本の近代の数学・物理教育のルーツは、長崎の海軍伝習所にあり、当時新設された工学部には、士族(武士階級に属す者に与えられた称号)出身者の割合が際立って高いという現象がみられ、これは他の国にはない特徴だった。
日本より少し遅れて近代化が行なわれたトルコは、欧米において日本との比較研究の対象にされることが多い。
トルコでは、かつての大トルコ帝国の矜持を背負った武士団である旧軍事エリート階層は、その多くが新制トルコ共和国軍の将校になる道を選んだのであり、彼らがまとまって工学部に入るなどという話は聞いたことがない。
そもそも武士が工学部に行くという選択肢がほとんどなかったのではないだろうか。面白いのは、日本の場合、それらの人びとがいくつかのタイプに分かれて、役割分担を行なっていたことで、普段では社会的に到底あり得ないような動きが可能になったとみられるのである。ではそのタイプを具体的に列挙していこう。
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「独創的な発想力をもつ思想家」…勝海舟、島津斉彬、織田信長などの第1タイプ >
更新:11月22日 00:05