2021年02月04日 公開
2021年07月20日 更新
そして日本の場合に面白いのは、もう一つ、第4のタイプというものの存在である。この第4タイプの一番の特性は、自身は理数系の出身ではないのであるが、先述した第1タイプを神のように崇めて、一生をその思想の使徒として生きることにある。
そして第2タイプとは違って、組織の黒子に徹するのではなく、しばしば第1タイプの“代行者”として日なたに出ていく。
つまり、この第4タイプの行動ビジョン自体は、自身の独創ではないが、与えられたビジョンを深く信仰しているのでかえって迷いがない。その一方、彼らは雰囲気が理系的ではないので、日本の一般社会にとって、とっつきがよいため遥かに共感を得やすい。
そして、先ほどの第1タイプの例として挙げた人物をみると、いずれもこの第4タイプがペアのように随伴していて大変に興味深い。
薩摩の島津斉彬の場合、西郷隆盛がまさに彼を神として一生を生きた人物だった。また、勝海舟に対しては坂本龍馬がそうであり、戦国時代では、織田信長に対する豊臣秀吉がそうである。
彼らはいずれも雰囲気はむしろ文系的だが、神である第一タイプの独創的なビジョンを忠実に踏襲するため、民衆からはかえってヒーロー代表とみられることが多く、彼らの存在によって、大衆は理数系武士団の物語自体を、自分たちのものとして受容することができるのである。
日本の歴史では、国難に際して4つのタイプが同時に生まれて自然に連携をとった。時には政府を無視して自発的に行動することで、国の針路に決定的な影響を与えているのである。
その典型的なパターンを整理すると、第1タイプの、通常では社会に受け入れられないようなビジョンが、第2タイプに保護されて、それなりに組織のなかで生きる場所を得る一方、各地の第3タイプの人間が、量的な面での人材確保を鈍重な政府にかわって引き受ける。
仕上げに、第4タイプが理系と文系のあいだに立って、本来なら日本社会に受け入れられにくいそれらの動きを、世の中に融和浸透させる役割を果たすのである。
欧米の場合であれば、理系的・論理的な人間は普段から社会や政治の中心部に入り込んでいて、たとえばフランスなどでは、数学ができないと知的エリートとはみなされないという傾向がある。そのため、わざわざ結束して特殊な集団をつくる必要が、最初からそれほどないわけである。
一方それに比べると、日本における理系集団は平素は社会から孤立していて、文系社会に一方的に使われる一種の高級職人としての立場に甘んじており、その真の力を活かすにはこうした特殊な暗黙の分業体制による結束が必要だったのである。
ところが、理数系武士団を歴史のなかに置いたときの効果はこれに留まらない。じつはこの場合、彼らが「自発的な連携で生まれるために、外からみてもその存在がわかりにくい」ということが、結果として大きな戦略的意義を帯びることになるのである。
つまり、他国からみると、大きな力の塊が突然出現することになり、その存在自体が一種の奇襲効果をもってしまうということである。
一般的に、他国が日本を封じ込む戦略を立案する場合、恐らく事前の段階では理数系武士団が存在しない状況を想定して「日本の力はこの程度」と見積もり、それをもとに戦略を策定するだろう。
ところが蓋を開けてみると、その存在が日本に予想外の動きをさせることで、封じ込めの構図が根本的に狂って、一時的にその戦略全体がガタガタになってしまうのである。
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更新:11月22日 00:05