台湾の元総統の李登輝氏がその著書『新・台湾の主張』にて、日本ではあまり知られていないが、台湾で大きな尊敬を集めた日本人・八田與一氏について詳述している。本稿ではその一節を紹介する。
※本稿は、2015年1月に発刊された『新・台湾の主張』から一部抜粋・編集したものです。
台南市にある八田與一像(2017年3月撮影)
八田與一といっても、日本ではピンとくる人は少ないかもしれない。台湾にダムと灌漑用水路を建設し、不毛の土地を穀倉地帯に変えた八田は、台湾にとって恩人ともいえる人物である。
私は2002年、慶應義塾大学の三田祭に学生サークルから招聘を受け、訪日する予定だった。しかし、日本の外務省がビザの発給に反対したため、予定されていた講演を実現できなかった。
八田はこの"幻の講演"で紹介するはずだった日本人技師である。訪日を取り消さざるを得ない状況になった直後、当時の河崎真澄・産経新聞台北支局長が「講演原稿を紙面に掲載したい」と申し出てくれた。
そして私が鉛筆で手書きした原稿は産経新聞の一面に全文掲載されることとなり、皮肉なことだが、結果的により多くの人々の目に触れ、八田技師の存在が日本で知られるようになった。
八田は1886年に石川県金沢市で生まれた。第四高等学校を経て、1910年に東京帝国大学の土木工学科を卒業。まもなく台湾総督府土木局に勤めてから56歳で亡くなるまで、ほぼ生涯を台湾で過ごした。
八田が台湾に赴任したとき、すでに後藤新平は台湾を離任していた。後藤の時代に台湾の近代化はかなり進んだとはいえ、河川水利事業や土地改革事業は遅れていた。台湾の年間降雨量は多く、河川も多く流れている。
だが、夏季と冬季の降水量の差が激しく、灌漑用水として使用できなかった。とくに南西部に位置する嘉南平原(総面積4500平方㎞)は当時不毛の地といわれ、農業の生産性は低く、農民の生活は苦しかった。
八田は台湾に赴任後、台北の南方、桃園台地の灌漑用農業水路である桃園大シュウの調整設計を行ない、1921年に完成させた(大シュウは大きな水路の意味である)。これが今日の石門ダムの前身である。
この工事の途中から八田は、烏山頭ダム(台南市)の建設並びに、嘉南平原に蜘蛛の巣のように張りめぐらせた約1万6000㎞もの水路工事に着手する。地球の全周が約4万㎞であることを考えれば、工事の規模が想像できよう。
さらに、この水路には水門や橋、堤防などが設けられ、主要建造物の数は4000を超えた。烏山頭ダムとこの水路設備全体を合わせて嘉南大シュウという。
じつに10年の歳月と総工費5400万円(当時の金額)の予算を要した大事業であった。私の心の友、司馬遼太郎さんはその事業を「日本史上、空前の大工事」と評した(『街道をゆく 台湾紀行』)。
1930年に工事が完成した際、八田はなんと44歳の若さであった。戦後日本で最大規模の灌漑工事となった愛知用水の10倍を超える事業を、当時の台湾で行なったことになる。
その偉大さについては、私も賛辞を惜しまない。八田がつくった新しい水路から水が流れてきたとき、嘉南平原に住む台湾農民60万人は「神の水が来た」といって感激のあまり涙を流し、これを迎えたと伝わる。
工事では十年間に134人もの人が犠牲になったが、嘉南大シュウの完成後に殉工碑が建てられ、日本人、台湾人の区別なくその名が刻まれた。
その後、八田は南方開発派遣要員として陸軍に招聘される。そして1942年5月8日、大型客船「大洋丸」に乗ってフィリピンに向かう途中、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃に遭って船が沈没し、八田も遭難してしまう。享年56。
3年後、日本の敗戦によって日本人が一人残らず台湾から去らなければならなくなったとき、八田の妻・外代樹は烏頭山ダムの放水口に身を投じて夫の後を追った。御年46歳であった。八田夫妻に対する台湾人の哀惜の念は尽きない。
更新:12月22日 00:05