――近ごろ、日本の若者と対話する機会が多いようですね。
【タン】はい、そうですね。面白いのは、日本の高校生が描く未来と、台湾の高校生のそれがほとんど同じことです。まず、地球の資源を無駄にしてはいけない。
それから、私たちが「ログイン」したときより「ログアウト」したあとの世界をより良くする必要があること。それらを聞いて思い出すのが、李登輝さんの「我是不是我的我(私は私でない私である)」という有名な言葉です。
この場合の「私」とは、「私ではない」ほかの人から規定されます。ほかの人が「私」というパズルをどんどん埋めていき、最後のピースだけは彼自身がはめる。李登輝さんにとっての「私」とは、その「私ではない」全体に属しているのです。
皆それぞれが、自分のことをパズルのピースだと考えてみたらどうでしょうか。そう語りかけたとき、日本の高校生は「以前の世代が起こしてきた戦争や経済成長、資源の浪費は、もし自分たちが放っておけば、被害を受けるのもまた未来の自分だ」との意識をもっていました。
この意見は台湾の高校生と完全に一致している。サステナブル(持続可能)な目標をとりわけ重要視しているのが、日本と台湾の若者ですね。
――お話の随所でエピソードが出てくるように、李登輝氏の哲学に影響を受けているのでしょうか。
【タン】はい。彼は一人の人間の在り方をみせてくれたし、私自身、そこから大いに学びたいと願う一人です。
李登輝さんは自身が万能だとは思っていなかったでしょう。だからこそ、人びとの要求や考え方を自分の心に進んで取り入れていきました。すると、心の中にはプライベートな欲望の余地がなくなります。
もし心に10%の私的な欲望があるとすれば、皆の民主的な欲求のための空間は残り90%もあります。逆に、90%が私的な欲望であれば、他のものが入る余地はほとんどない。李登輝さんは自分の欲望をできるだけ抑え、皆が思いついた新しい考え方を大胆に取り入れたのです。
複雑で難解な理論や研究にも、彼はとても興味をもっていました。政治の世界から距離を置いてからも、特殊な品種の牛であるとか、まったく違う分野の素養を身につけて論文まで書いていた。ものすごい修身の精神ですね。
――世代的には離れていますが、かつての李登輝氏と同じく、タン氏も「公」の職務に従事していますね。
【タン】ポイントは世代ではありません。今日学習したことを活かして、明日に目が覚めたときに新しい角度で物事をみることを望むかどうかです。課題に直面したとき、昨日はそう思っていなかったけれど、今日は民主的な問題があってどうにもならないと気がつけば、「ごめんなさい、私が間違っていました。明日はもっとよくなるように努力します」と言えばよい。
そうした素直な精神をもつ人物として、李登輝さんのほかに、今回のコロナ対策で中心的な役割を担った陳時中衛生福利部長(厚生労働大臣に相当)が挙げられるでしょう。彼はまったくといっていいほど「面子」なんて考えていない。もし自分が間違っていたら即刻謝って、全力でまた明日に備えるのです。
更新:11月24日 00:05