2020年02月22日 公開
2023年01月16日 更新
たとえば、大きな国営企業が部を一つ設けて倫理学者を数名雇っていると考えてみてください。現状とは違うモデルになるでしょう。
ゲーム理論を使って消費者と生産者のギャップを利用しようとする経済学者ではなく、倫理学者です。トヨタにプロフェッショナルの倫理学者が30人いることを想像してみてください。
エコカーの生産台数、車のデザイン、どの業界の株を買うか、こういった判断を倫理学者が下し、報告書をCEO(最高経営責任者)に提出するとします。
資本主義は、完全に変化するでしょう。倫理学者たちが「ああ神よ、これを実行すると、私は200もの人間を殺めてしまう!」と叫ぶからです。
「これを実行すると車の価値が上がるが、(サプライ)チェーンの末端にいる者は死ぬ」という可能性は、今は完全に隠されています。
実際にはトヨタに倫理学者のチームがいることはないので、この可能性が表に出ることはありません。いるのは経済学者ですが、経済学者は誰かが死ぬかもしれない、という可能性を考慮に入れていません。
我々は倫理学者が介在するような構造を持つべきです。倫理資本主義は完全に可能です。このことを今まで提案した人がいない理由は極めて単純で、どの倫理学者も資本主義を批判しているからです。
資本主義はある意味、避けられません。我々は労働に対して価格をつけなければならないからです。
根っからの共産主義者に会ったら、私は必ず「あなたは労働の役割分担をすっかり廃止したいのですか?」と聞くことにしています。
すると彼らは「そうだね、やはり廃止しなければならない。労働の役割分担はだめだ」と答えます。「がんばってくれ!」としか言いようがない。
なぜならそれは、マグロを食べたいと思ったらまず海に行ってマグロを捕獲するところから始めねばならない、ということを意味するからです。
マグロを切るナイフをどこで調達するのか。自分でナイフを作らねばならなくなります。夕食にありつくことができません。
労働の役割分担がなければ、餓死するのです。労働の役割分担は避けられません。でも実際は正しくそれがなされていないのです。
資本家を含めて我々は皆、資本主義は悪にならざるを得ないという前提に立っているからです。でも、(本来は)資本主義は悪になる必要はありません。これは近代化の偶発的な副産物なのです。
だから倫理資本主義と呼ばれるような、他のシステムが必要なのです。私が提案するモデルは、co-immunism(共に免責し合う主義)です。
我々にはcommunism(共産主義)よりもco-immunismが必要なのです。これはペーター・スローターダイクから私が借りた表現で、彼はまったく別の意味で使っていますが、
私がここで想定するのは「すべての人、社会システム、グローバル社会の一員、誰もが──そこにはもちろん国民国家も含まれます──協力のモデルに基づいて動く」という意味です。
京都学派の誰かも似たような思想を持っており、当時はooperationism(協同主義)と呼ばれていました。それもいい考えだと思います。社会のすべてのレベルにいる人が協力しなければなりません。
社会のゴールは、企業のゴールも含めて「人間性の向上」になるべきです。収入の増加ではなく、モラルの進歩を目指すのです。これは完全に実現可能です。
フェイスブックはモラリティの提供を約束しましたが、その約束は実行されませんでした。提供したのはその逆です。彼らが提供したのは解放でした。誰もが自由になれるというものです。そうやって彼らは儲けたのです。
対して、モラリティを売っているふりをせず、本当にモラリティを売っている会社があったなら、その会社は持続可能な超巨大企業になるでしょう。
私は今ドイツの企業と協力して、まさにそのようなモデルを確立しようとしています。それこそが資本主義の危機を解決する方法です。
(訳・大野和基)
更新:11月23日 00:05