則天武后が行なった最大の政治闘争はすなわち、自分が皇帝となるための地ならしとしての大粛清だった。
紀元六八六年、則天武后は前代未聞の密告奨励制度を実施して、官僚をターゲットとする密告を全国に呼びかけ、大いに奨励した。そして「酷吏(こくり)」と称されるならず者出身の悪党たちを使って、密告された者たちへの尋問・裁判を行なった。
そのなかで、残忍無類の拷問と芋づる式の連累追及が横行して多くの人々とその家族の命を奪い、全国の官僚集団を恐怖のドン底に陥れたのである。
スターリンの大粛清や毛沢東の「文化大革命」を彷彿(ほうふつ)とさせるような残酷極まりない政治闘争の手法であるが、則天武后という女性政治家は、どうしてそこまで冷酷になれたのだろうか。
どうしてそれほどの残忍な恐怖政治をやらなければならなかったのだろうか。
そしてそもそも、皇后の座に昇り詰めて女性としての栄華の頂点に達した後に、彼女が依然として権力への執念に情熱を燃やして、権力の奪取と保持のための戦いに明け暮れたのは、いったいなぜなのだろうか。彼女という人間を半世紀にわたっての激しい権力闘争に駆り立てた原動力とはいったい何ものだったのか。
中国史におけるこの大きな謎を解くために、われわれはまず一度、彼女が十四歳で太宗の後宮に入ったときの話に戻り、則天武后の原点たるものを探ってみよう。
十四歳で太宗の宮殿に入ったとき、武照に与えられた位は非常に低かった。
唐の後宮制度では、皇帝に仕える女たちに厳格な階級がある。皇后一人の下に、貴妃(きひ)・淑妃(しゅくひ)・徳妃(とくひ)・賢妃(けんひ)各一人の妃があり、その下に九嬪(きゆうひん)といって昭儀(しようぎ)・昭容(しようよう)
以下の九段階があって各一人。その下にさらに美人(びじん)・才人(さいじん)が各九名あるが、武照の位は才人である。皇后を頂点とする後妃たちの序列のなかでは、武照はたんなる下っ端にすぎなかった。
妃の一人として、彼女は太宗のお召しを受ける機会もあったと思われるが、皇帝から格別に寵愛(ちょうあい)された痕跡はまったくない。貞観二十三年(六四九年)に太宗が崩ずるまで、武照の位は才人のままであった。
いってみれば、十四歳から太宗に仕えて八年、武照は宮殿のなかでずっと不遇の日々を送っていたわけである。美貌で、才知があり、しかも人一倍気の強い武照にとって、嫉妬や暗闘や陰湿ないじめが横行する後宮での「下積み生活」がどれほど酷いものだったかは、おおむね想像できよう。
この八年間の下積み生活こそが、のちに稀代の女謀略家、残忍な悪女として知られる則天武后を形づくった最初の人生体験だったのかもしれない。
貞観二十三年に太宗が崩御すると、武照はよりいっそう不幸な人生を迎えることになった。当時の制度にしたがって、亡き皇帝のお召しを受けたことがあって子供を生まなかった妃や宮女たちは全員、後宮から出てお寺に入り、尼となる定めであった。
才人武照も、他の妃たちとともに長安の感業寺(かんぎょうじ)という尼寺に入れられ、髪を剃って出家した。先帝の菩提を弔いながら、花も咲かず実も結ばない悲惨な生涯を送る運命となった。
この年、二十二歳で花盛りの青春の真っ只中にあった武照にしては、それはあまりにも理不尽、あまりにも残酷な運命だったのではないか。
儒教的思想に基づいてつくりあげられた中国の政治秩序と後宮制度は、つねに女たちに多大な犠牲を強いる。武照も多くの犠牲者のなかの一人として、尼寺のなかでその惨い生涯を終えるはずだった。
もちろん、そんなこととなっていたら、われわれがここで「則天武后」を語るようなことは永遠にないが、武照一人だけは、儒教と権力によって強いられたこの過酷な運命から逃れることができた。
更新:11月21日 00:05