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吉見俊哉 文理の二刀流が未来をつくる

2018年12月29日 公開

吉見俊哉(東京大学大学院情報学環教授)

日米の学生の質には差がないが……

現状でいえば、残念ながら日本の高等教育には数々の問題がある。

私は2017年9月から18年6月までの10カ月間、ハーバード大学で教壇に立った。その経験から身をもって知ったことがある。

日米、とくにハーバード大学のようなトップユニバーシティと、東京大学を比べると、学生の質はまったく差がない。東大や京大の学生は、学力では世界的にも間違いなくトップの水準にあるということだ。

では、何が決定的に違うのか。

ひと言でいえば、教育の制度的な仕組みである。日本の大学教育は、学生たちの知的な思考力や想像力を世界に通用するような仕方で伸ばす仕組みになっていない。

その最たる例が、学生が1学期間に履修する科目の数である。日本の大学生は、平均で1学期に10~12程度の科目を履修する。これに対し、アメリカの大学の学生が履修するのは、1学期に平均4~6科目である。

結果的に、4年間でアメリカの学生が履修するのが20数科目なのに対し、日本の大学生は60から70の科目を履修していく。多ければいいというものではない。

だいたい70もの科目に出席していたら、卒業するころには自分が1、2年生のころに何を学んでいたかは忘れてしまう。あまりにも広く浅く科目が細分化されているので、よほど意識的に自分の学びを体系化できる学生でなければ、大学での勉強は身に付かない仕組みである。

しかも、学期ごとの履修科目の数が多いことはもう1つの弊害をもたらす。

日本の大学生が使う言葉に「授業を切る」というものがある。とりあえず科目を登録はしておくが、しばらく出席して先生が厳しそうだった、課題が多そうだとなると、その科目の単位取得を諦め、スキップするのだ。

履修科目数が多いということは、1科目当たりの単位数が少ないわけで、アメリカでは1科目が4単位から6単位程度なのに対し、日本では平均2単位以下である。そんなに単位が軽い科目なら、学生はそれを気軽に切り捨ててしまっても、卒業はできる。

アメリカの大学の学生は、日本の学生よりもよく勉強をするとしばしば言われる。

しかし、それはアメリカの大学生が日本の大学生よりも真面目だからではなく、アメリカの大学では、よほどの覚悟がなければ「授業を切る」ことはできない仕組みになっているからだ。

1科目の単位数が大きいので、1科目でも不合格になれば、その学生はたぶん卒業できない。それはまずいので、履修した科目を必死になって学ぶのである。学生が本質的に真面目だとか、不真面目だとかいう話ではなく、学生が真面目にならざるをえない仕組みが存在するのだ。

日本の大学は、入るのが難しく出るのは簡単。アメリカの大学は、入るのが簡単かどうかはともかく、少なくとも出るのは難しい。その根本は、それぞれの科目が精選され、その単位を得るのが簡単ではないことによる。

このような日米の大学の仕組みの違いは、大学教授の教育姿勢にも影響している。日本の先生たちは、自分の授業がせいぜい2単位程度の重みしかないことをよく知っている。

厳しい授業をすれば、多数の生徒が教室からいなくなるだろうし、何よりも、数多くの授業を履修している学生に重い課題を出すことは難しいだろう。

たとえば、ある学生が1週間に12の科目を履修していたとして、すべての授業で課題図書を2冊ずつ課されたらどうなるか。1週間に24冊の文献を予習しなければならなくなる。これは不可能だ。

教授たちもそれがわかっているから、無理な要求はしない。それで、各科目はそれなりに出席していれば単位が取れる構造が出来上がった。日本の大学生はアメリカの学生よりも勉強したくないのではなく、する必要がないのである。

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