2018年12月06日 公開
2024年12月16日 更新
取材・構成・写真:大野和基(国際ジャーナリスト)
「機械は、美しい音楽や感動する音楽を作曲したり小説を書いたりというような、アートを創造することはできない」という意見に対し、世界的数学者のマーカス・デュ・ソートイ教授は異を唱える。アートと数学の意外な共通点とは。※本稿は『Voice』2019年1月号、マーカス・デュ・ソートイ氏の「数学は人間が探している神である」を一部抜粋、編集したものです。
――人は固定観念や結論を捨てない傾向にあります。それは科学を追求するときの危険性の1つでしょう。現在、「ある理論が正しい」「有効である」と思っていても、将来その有効性が失われるかもしれない。思い込みという罠から抜け出すには、どうしたらいいでしょうか。
ソートイ 拙著What We Cannot Know(邦訳『知の果てへの旅』、新潮社)では、過去について話しているところがあります。過去を見ることで、未来に行くことの助けになるからです。過去を振り返ることで、完結していたと思っていたことが、実際には程遠かったというストーリーに何回も出くわします。
1つ例を挙げましょう。「物質が何でできているか」の問いについてです。
昔は、原子がこれ以上分割できない単位だと思っていました。水素2単位に対して、酸素1単位で水ができるので、一見筋が通っているように思われました。
しかし、突如として原子が分割されて、その答えは「ノー」とされました。エレクトロン、プロトン、ニュートロンが見つかり、そこで完結したかと思うと、さらに他の粒子が見つかって大混乱です。
そして物質は、ニュートロンとクォークでできているという新説が出てきました。それが最終的な答えであるかどうか、科学者に聞いたとすると、誰もが「もしそう考えるなら、なんと傲慢なことか」と答えるでしょう。
本書を執筆する目的の1つは、この点にありました。新しいストーリーが若者から出てくることは多い。彼らはつねに「正説」を破りたいと考えています。
ただ、おそらくクォークは、もっとも分割できないものでしょう。そうすると、もう新しいストーリーは出てこなくなります。それはいささか悲しいことですが。
――物質に関しては、知り得ないことはもうない?
ソートイ クォークがファイナルかどうかは永久にわかりません。イギリスの哲学者カール・ポパーが喝破したように、「もしそれが真の科学であるならば、反証可能であるチャンスがなければならない」からです。
このストーリーを何回も検証して覆らなくても、100年後に新しいアイデアが出てくるかもしれません。そうした緊張と共生する覚悟が必要です。
――本書の、いわば壮大で深遠な物語のなかで、日本の読者に楽しんでほしいところを挙げてください。
ソートイ 選ぶのは難しいですね……。宇宙論のところは間違いなく楽しめると思います。子供のとき思う問いに戻るからです。夜空を見上げて、この宇宙で自分のいる所はどこかを考えたり、宇宙船に乗って出掛けたら、何が起こるのだろうという問いです。
永久に旅を続けるのだろうか、あるいは壁にぶつかるか。無事に出発点に戻ってこられるのか……。宇宙論のエッジ(テーマ)は多くの人が共鳴するでしょう。
われわれが惑星というエッジで行き詰まり、それでも、宇宙について多くを知ることができるというのは、人間の頭脳と科学の驚くべきパワーを示していると思います。
たとえば、ギャラクシー(星雲)があることをわれわれは知っています。そのギャラクシーが猛スピードで去っていき、向こう側に消えていくことも知っている。
宇宙に関する基本的な問いは、みんなが理解できるものだと思います。まさに宇宙は有限なのか、無限なのか、という問いです。もし無限でないとすれば、それはどのように作用するのか。それが1つのテーマです。
もう1つは神経科学です。それは宇宙のように大きいものです。われわれはたんに原子の塊ですが、この原子は鏡の中の自分を認識できるようです。
眠りにつくとその能力が消えていく感じがして、死んでしまうと二度と戻ってこないようにも思えます。胎児は意識があるのか。どの時点で意識が出てくるのだろうか。宇宙の中では、いつ最初の意識という存在があったのだろうか。
こういうテーマは、世界中の読者に共鳴すると思います。私を私にしているのは何か、という問いです。
更新:12月28日 00:05