2018年12月29日 公開
2024年12月16日 更新
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AIに負けないための素養については、本サイト「吉見俊哉 AIは『日本100年の計』を設計できない」に詳しい。では、具体的にどのような教育改革を進めていくべきなのか。吉見俊哉氏が説く文理二刀流の学びとは。
※本稿は『Voice』2019年1月号、吉見俊哉氏の「文理の二刀流が未来をつくる」を一部抜粋、編集したものです。
日本人には明治以来、理系的な知、工学的な知を重視する傾向が強い。手段的に有用な知は、メリットがわかりやすいからだ。
他方、現在の「当たり前」を疑うことに賭ける文系的な知がいったい何に役立つのかを理解するのは簡単ではない。このまさに「何に」という部分を問題にし、相対化していくからだ。
そのため、新しい価値を生み出す基盤となる文系的知の有用性は長く理解されてこなかった。
そもそも明治以来、1960年代ごろまでは、欧米というめざすべき目標がはっきりしていたから、別の目的を創出する必要がなかったともいえる。
このような社会で価値の転換は、個人や集団の突発的なイノベーションに依存してきた。
一例だが、ソニーのウォークマンは世界に誇れるイノベーションだった。その素晴らしさは、それが日本の技術力の高さを示したことではなく、私たちのメディアに対する価値観の転換を含んでいたことにある。
ところがじつは、ソニー自身がこのことに深くは気付いていなかったのだ。そのため、ソニーはその後、ウォークマンに並ぶような世界を驚かす製品を生み出せなかった。
ソニーがアップルのようにiPhoneをつくれなかったのは、けっして技術的な問題ではない。絶頂期のソニーの技術力は、アップルより先にスマートフォンをつくれる力をもっていたのではないか。
しかし、企業としてのソニーには、「技術」ではない「何か」が欠けていたのだ。
ウォークマンは、たしかに革新的だったが、ステレオという概念を完全には捨て切れていない。そこにはステレオからの連続性がある。
これに対してiPhoneは、電話ともいえるし、パソコンともいえる。カメラともいえるし、テレビともいえる。これらの諸概念を一挙に壊し、新しいメディア概念を構築している。
そしてこれは、スティーブ・ジョブズが「マッキントッシュ」をつくり、コンピュータの既成観念を壊したころからずっとやってきたことだった。
ジョブズの凄さは、根っからのマージナルマン(境界人)であったことに加え、大学でも哲学から宗教、ヒッピー文化まで含め、たんなるコンピュータ工学にとどまらない脱領域の知性を身に付けていたことにある。
20世紀の大企業家のなかで、ジョブズくらい「当たり前」を疑う天才はいなかった。そのような人物だからこそ、既存のあらゆるメディア概念を壊し、それまでとは非連続な、別のメディア概念を想像することができたのだ。
もちろん日本の企業家たちも、1980年代から90年代にかけて、イノベーションや創造性を称賛した。
しかし、彼らに欠けていたのは、もっと深いところで「当たり前」を疑うことのできる方法論、本来的な意味での文系的な知性だったのだと思う。
80年代の絶頂期の日本企業がしなければいけなかったのは、バブルに浮かれることではもちろんないし、技術をより高度化させることへの専心でもなく、その技術が向かいつつある方向性を、根本から疑ってみることだったのではないか。
だから、日本がこれからなすべきことははっきりしている。文系は役に立たないなどとは言わず、むしろ逆に文系的な知こそ、国や産業界、リーダーたちのあいだにいかに育むかを考えなければならない。それこそ、「教育百年の計」を打ち立てることが求められている。
更新:12月31日 00:05