Voice » WEB連載 » 【日本文明研究会】文明のなかで築かれた日本人の死生観(4)

【日本文明研究会】文明のなかで築かれた日本人の死生観(4)

佐藤弘夫(東北大学名誉教授)

(福岡県沖ノ島、福岡県観光連盟提供)  (福岡県沖ノ島、福岡県観光連盟提供

米中をはじめとする文明的大国が自己主張を強め、同時にデジタル化やビッグデータを軸にした技術革新が起きているなど、私たちはいま劇的な世界の変化を経験しています。このような状況下では、環境変化の圧力や不確実性に翻弄されるばかりでは十分ではなく、日本のあり様や世界のなかでの位置づけを問い直していく必要があるはずです。

日本文明研究会(委員:河野有理、藤本龍児、三宅香帆)」では、日本の文明的な性格がいかなるものかを、思想・宗教、文化文芸から家族、組織原理、政治、経済社会にいたるまで多角的な視点で検討し、顕在知として表出していくことをめざします。今回は、日本文明のなかでかたちづくられた私たちの「死生観」について、4回にわたって見ていきます。(構成:藤橋絵美子)

 

人間は「神をこの世界から追い出してしまった」

前回、近代化とは、人間以外のものを「世界」から排除するプロセスだったと述べましたが、なかでも大きな問題は、「神」(超越的存在)をこの世界から追い出してしまったことです。

このことによって発生した問題のひとつに、国境紛争があります。福岡県にある世界遺産の沖ノ島には、4世紀から9世紀にわたる貴重な祭祀遺跡がそのまま残っており、「海の正倉院」と言われています。当時、日本から朝鮮半島や大陸に渡る人々は、この島に降り立ち、神に航海の無事を祈りました。島や大海を支配しているのは神であると考えられていたからです。

前近代では、国は人を支配するシステムでした。人が住まない場所、経済的に無価値な地域は人が支配する対象ではなく、神の領域でした。神は国と国、共同体と共同体の間に入って、両者が衝突することを防ぐ「緩衝材」のような役割を果たしていたのです。

しかし、近代化によって人間は、神をこの世界から追い出してしまいました。その結果、人間の支配する領域同士、国家同士が直に接するという状況が発生しました。無人島の帰属をめぐって争いが生じ、人の住まない砂漠や海に見えない境界線が引かれるという事態が発生することになったのです。

これは排外主義やナショナリズムを抑制する「緩衝材」が失われた結果です。体に棘を生やした人間が狭い箱にぎっしりと詰め込まれ、少しでも動けばすぐさま他者を傷つけるような息苦しい時代になってしまったのです。

無人の孤島に対し、そこで心身を浄めて神に祈りを捧げた古代人と、その領有を主張して会ったこともない他国民を罵倒する現代の人々。どちらの生き方が人としてのあるべき姿なのか、私たちは慎重に考えてみる必要があるのではないでしょうか。

 

「生と死のストーリー」を失った結果...

神をこの世界から追い出したことから生まれたもう一つの深刻な弊害は、私たちの精神世界から生と死を貫くストーリーが失われてしまったことです。

すでに述べたように、前近代の日本では、人生はこの世(現世)だけで完結するものではありませんでした。現世のすぐ隣に、あるいは重なり合うようにして、死の世界が存在していました。2つの世界をつなぎ、死の恐怖をやわらげる「緩衝材」の役割を果たしていたものが、神・仏・死者などの超越的存在(広い意味での「神」)だったのです。

宮城県で長年にわたって緩和ケアの仕事に従事し、2,000人以上の患者たちを看取った岡部健(故人)という医師がいます。彼は自身がガンになるのですが、みずから死を意識したときの心境を、こう語っています。

 

がん患者になったとき、痩せた山の尾根を歩いている気分だった。(中略)晴れ渡った右の生の世界には、やれ化学療法だ、やれ緩和医療だ、やれ疼痛管理だとか、数えきれないほどの道しるべが煌煌と輝いていた。ところが、反対側の死の世界に降りていく斜面は、黒々とした闇に包まれ、道しるべがひとつもないのだ。(奥野修司『看取り先生の遺言』文藝春秋)

 

現代人にとって死は未知の暗黒世界であり、人は生死の一線を越えることを極度に恐れるようになってしまった。1分1秒でも長く人をこの世界に引き留めようとすることが、医療の至上命題になっている――岡部医師の言葉は、死者をこの世から追い出し、避けようのない自然現象であるはずの死に目を背ける私たち現代人の本質を、鋭く指摘するもののように思われるのです。

 

かつては、死の恐怖を乗り越える知恵があった

鎌倉時代の13世紀に制作された春日宮曼荼羅には、「生と死を貫くストーリー」が鮮やかに描かれています。絵の上方中央に春日山を後景として御蓋山(みかさやま)があり、山中には浮遊する春日社の本地仏5体が描かれています。下部中央には一の鳥居があり、そこから参道が春日社までつながっています。その下に広がるのは、当時、葬送の場となっていた春日野です。

この曼荼羅には、死者の世界(春日野)、この世の浄土(春日社)、来迎仏(御蓋山)が重層的に描かれ、死者の霊魂が山中に現れた仏に手を引かれて、春日神社から春日山へと延びる空中の道を通って遠い浄土へ旅立っていくプロセスが端的に表現されています。中世の説話にも、春日の神に祈りを捧げることによって、その力で死後に浄土に行くことができるという話が数多く見られます。

このように前近代社会では、人間にとって「死」は避けられない運命であることを前提として、さまざまな生と死のストーリーが語られてきました。そして、生前から死後の世界を意識したさまざまな儀礼が営まれ、死が確定してからも長期にわたって故人との交流が続けられたのです。

生の世界と死の世界は重なりあっていて、死後も故人はそばに住み続ける。いずれ冥界で先に逝った人々と再会できる。また自分自身も墓の中から子孫の行く末を見守り、折に触れて家に帰ることができる――。

死後も懐かしい人々と交流できるという安心感が社会の隅々にまで行き渡ることによって、人は死の恐怖を乗り越えることが可能となりました。日常生活のなかで死者と付き合い、死後の世界と向き合い続けることによって、死を当たり前の出来事として受け入れていったのです。

 

現代に残る「モリ供養」というシステム

東北地方の一部地域では、「モリ供養」と呼ばれる先祖供養の儀式が行われています。お盆の時期になると、普段は人が立ち入らない山が開放され、山上のお堂で死者の供養が行なわれるのです。

「モリ供養」の背景には、死者の霊魂が村近くの里山(モリ)に籠もるという、この地方の伝承があります。死者の宿る里山はハヤマ(端山)とも呼ばれました。「羽山」「葉山」など表記は異なりますが、東北地方にはいくつものハヤマが存在します。

山形県の庄内地方では、いまもいくつかの山でモリ供養が行われています。故人の霊はしばらく里近くのモリ・ハヤマに留まり、その後、より高みをめざして奥山である月山(がっさん)に向けて旅立ちます。「モリ供養」は、ハヤマに住む祖霊を慰め、月山への出立を後押しするための儀式なのです。

福島県二本松市の木幡山も、祖霊の宿るハヤマです。師走に五色の旗百本を押し立て、法螺貝を響かせて木幡山を目指す「木幡の幡祭り」は、いまでこそ観光行事化していますが、もともとは宗教色の強い先祖供養の儀式でした。

木幡山には中世につくられた板碑が立っています。板碑とは、石を四角形に整形して、そこに梵字(サンスクリット文字)を刻んだものです。さらに、山頂には「経塚」という、お経を埋めた跡が残っています。板碑と経塚は、山を清めるための装置です。板碑を建て経塚を造り、そこに火葬した骨を納めることによって、故人の浄土往生が成就すると信じられていたのです。

中世において山は、この世とあの世をつなぐ通路でした。それが近世になると、死者は遠い浄土に飛び立つことなく、いつまでも近くの山に留まると考えられるようになります。それがモリの山でありハヤマです。縁者はそうした山に登って供養を行ない、暫しの間、死者と同じ時間と空間を共有するのです。

モリの山・ハヤマは、そこに行くと先祖と会うことができる場所と信じられていました。見晴らしのよい山頂で、先祖とともに食事をとり、一緒に故郷の景色を眺める。その行為を通じて、いつか自分も亡くなったらこの山に住んで、子孫たちが折々に訪ねてくるのを楽しみにするのだろう、などと思いをめぐらせる。先祖との交歓によってパワーと心の安らぎをえた人々は、祖霊と一年後の再会を約束し、山を下りて日常生活に戻っていく――これは現代に生き続ける、「生と死をつなぐ物語」と言えるのではないでしょうか。

 

無縁の死者にも心を配っていた日本人

モリ供養などの行事は、自分の直接の先祖を供養するものでした。その一方で、かつての日本人には、「無縁」の死者に心を配る想像力もありました。

江戸時代に入ったころから、墓参りの習慣が定着していく中で、故人の名を刻んだ墓石が普及し始めます。幕末に向かうにつれて、墓を持つ家がしだいに下の身分にも浸透していきます。ただ、江戸時代にはそうした供養のシステムから漏れる人々も多くありました。たとえば奉公人や、婿入りできなかった次男・三男、遊女たちなどです。こうした祀り手のいない死者の増加は、環境の調和を乱す要因と見なされました。

東京・両国の回向院は、明暦3年(1657)に江戸を襲った大火の犠牲者追悼のために、幕命によって設けられた「万人塚」を濫觴とする寺院でした。有縁無縁を問わず万物を供養するという理念を掲げています。これなどは供養してくれる親族をもたない死者をケアするための、社会的装置の一つと見ることができるのではないでしょうか。

それぞれの家庭でも、お盆には自身の先祖を迎える精霊棚に加えて、行き場のない霊を歓待する「餓鬼棚」を設ける風習がありました。モリ供養にも無縁墓があり、だれでもお参りして花を手向けることができます。こうした施設を設けることによって、社会に安心感を生み出すようなシステムが出来上がっていたのです。

自分には死後も心地良い居場所があるという感覚の共有は、個々人のレベルを越えて社会全体の安定に直結するものです。無縁仏にも心を配ることのできる社会は、人間にとっても人間以外の存在にとっても、きっと優しく住みやすいものになるに違いありません。

日本各地に残っている先祖供養に関するさまざまな風習・行事はいま、急速に失われつつあります。「墓じまい」をする家も増えています。死生観の変動は時代の流れであり、従来の風習をそのまま受け継ぐことができないのはやむをえないことなのかもしれません。

しかし、すでに述べたように、生と死を貫くストーリーの共有は、精神の安定を確保するための欠かすことのできない条件です。今後どのように死者との関係を再構築していくのか。いま真剣に向き合わなければならない課題であると考えています。

 

なぜ「ゆるキャラ」がブームに? 

前近代の日本列島では、人間は、人以外のものに対する強い共感を持っていました。神仏・死者だけでなく、動物や植物までもが、言葉と意思の通じ合う一つの世界を構成していました。それらの存在が羊水のように人を包み込み、人間同士が直接衝突して傷つけ合うことを防いでいたのです。

近年日本全国で「ゆるキャラ」が大増殖しています。なぜ日本人は、これほどまでに膨大な動植物や無生物を擬人化し、キャラクター化していくのでしょうか。

私はゆるキャラを、神を追い出した現代人が、無機質な世界の息苦しさに耐えかねて創り出した小さな「神々」ではないかと考えています。ストレスに満ちた人間関係の「緩衝材」として、かつて神が担っていた役割をゆるキャラが代替しているのではないか。ゆるキャラの増加は、精神的に追い詰められている日本人が発する、救いと癒しを求める切実な「悲鳴」なのではないか……。

人間は理性だけでは生きられません。自分でも制御できない無意識の闇を抱える存在だからこそ、私たちを柔らかく包み込み、周囲との調和を取り持ってくれる何かを必要としているのです。

日本人が伝統の中で培ってきた森羅万象との調和を重視する「関係性の哲学」は、決して過去の思想ではない。むしろ現代社会において、新しい共生の在り方を模索するための有効な方法となりうるものと、私は考えています。声なきものたちの声を聞き取ることのできる人は、頑迷な隣人の声にも耳を傾けることができます。

私たちの祖先が1000年単位で積み重ねてきた知恵をもう一度掘り起こし、現代におけるその活用方法を見出す。自己中心の「正義」を振りかざした自己主張が横行し、人類の滅亡さえ視野に入りつつあるいまこそ、そうした試みが求められているのではないでしょうか。

 

*本原稿は、日本の文明的な性格がいかなるものかを顕在知として表出していくことをめざす「日本文明研究会」の内容を記事化したものです。

Voiceの詳細情報

関連記事

編集部のおすすめ

【日本文明研究会・第1回】明治・大正・昭和の名著から考える「日本」「家族」「共同体」

河野有理(法政大学教授)

【日本文明研究会・第2回】家父長制、集団と個、無常観...現代日本を考えるカギとは

三宅香帆(文芸評論家)

【日本文明研究会・第3回】「1つの文明圏」としての日本、受け継がれている精神性

藤本龍児(帝京大学教授)