
かつて「世界一」と評された日本の医療が危機に瀕している。円安や物価高騰が医療資材を直撃し、人材確保は難航、結果的に病床維持を難しくしているのが現状だ。診療報酬を引き上げれば国民負担が増え、下げれば医療機関の経営が苦しくなる。診療報酬という「公定価格」の制約下で、病院はいかにして生き残るべきか。医療ジャーナリストの森まどか氏が、我々国民が向き合うべき「医療のジレンマ」の正体に迫る。
※本稿は『Voice』2026年2月号より、内容を一部抜粋・編集したものの後編です。記載されている情報は執筆当時(2025年12月)の状況に基づいています。
2025年のはじめごろ、病院の相次ぐ廃院が報じられた。なかでも東京の人気エリア・吉祥寺では、過去10年間で駅周辺の4つの病院が病床廃止や診療休止を余儀なくされ、全国的な注目を集めることとなった。吉祥寺の病院にかぎらず、全国の医療機関が経営的な問題を抱えているのが現状だ。
取材を重ねるなかで、いくつかの共通課題が明らかになっている。
第一に、物価高騰と円安の影響である。医療現場では日々、ガーゼ、包帯、注射器、手袋、マスクなどの消耗品が大量に使用されている。これらの資材の仕入れ価格が上昇しているだけでなく、心臓カテーテル治療で用いられるカテーテルや、ロボット支援手術で使用される鉗子、チューブ、カニューレといった器具はもともと高コストであり、多くが海外メーカー製であるため円安による値上げが続いている。医療材料や医薬品の費用が前年度より3億円増加した大学病院もある。
医療機器やシステムには保守点検や更新費用も必要だ。電子カルテシステムの更新に年間7億円の見積もりが出されたという話もある。
さらに、24時間病院を稼働させるための水道光熱費の値上げも大きな負担となっている。厚生労働省が2023年に公表した「医療経済実態調査」によれば、一般病院(703施設)の一施設当たりの水道光熱費は2022年度に7780万円となり、前年度比で32.2%増加していた。
2024年度診療報酬改定では一定の措置が講じられたものの、2025年11月に公表された最新の調査結果では、光熱費は前年度比3〜8%程度の増加にとどまったものの、持続的な上昇が確認され、改定措置を上回る負担が続いていると考えられる。
一般企業であれば、生産コストが増加した場合には商品の値上げを検討できる。しかし医療機関の診療行為は、国が定めた診療報酬によって対価が支払われる公定価格であるため、このような費用の高騰は次回の改定で補填されないかぎり、経営を圧迫し続けることになる。コスト管理の徹底は一層重要性を増している。
第二に、人材確保と賃上げの問題である。地域医療を担う病院の幹部は「人を辞めさせないことと、人材を確保し続けることが経営安定の条件だ」と語る。たとえば、新人看護師を100人採用しても、年間で合計70人の看護師が退職してしまうという。キャリアの浅い看護師が残り、ベテラン看護師が辞めてしまうことは、医療安全上のリスクを高める要因となる。まずは離職を防ぐことが重要だと指摘する。
また、人材が集まるところにさらに人材が集まるため、看護師の配置に余裕がない病院は採用にも苦労する傾向があるとも述べている。看護師が十分に確保できなければ病床を維持できず、収入の減少に直結する。さらに、救急や緊急入院の受け入れにも影響が及ぶ可能性がある。
人手不足で一人当たりの業務量が増えれば、残業が増え、休暇がとりにくくなり、業務負担感が積み重なって離職につながるという負のスパイラルが生じる。したがって、経費倒れにならない程度ではあるが、人を抱えておく必要があるという。
しかし、働く環境を整える努力をしても、より良い賃金や労働環境を求めて転職するケースは少なくない。診療報酬の範囲内で実施できる賃上げには限界がある。
人材確保に際しては、人材紹介会社を経由する場合の高額な手数料が大きな負担となっている問題もある。また、公立病院では人事院勧告を踏まえて給与が検討されるため、人件費の増加が経営の厳しさを一層強めている病院も少なくない。
さらに、へき地の公立病院では遠方から通う非常勤医師に依存することが多く、飛行機代などの交通費が高額になるうえ、日勤や当直の報酬も一般より高く設定されるため、人件費の負担が経営に大きな影響を及ぼしている。
第三に、人口減少と高齢化に伴う医療需要の変化に、いかに対応するかという課題である。かつては「病床の数=病院の力」という価値観が根強く、病床を保有し、さらに増やすことが経営上の大きなメリットとされていた。また、「急性期医療こそが病院の使命だ」と考える医師も少なくなかった。
急性期病院の役割は、重症度や緊張度が高く症状が安定しない患者に対して集中的な医療を提供し、症状を安定へ導くことである。
しかし現在、高齢者は総人口の29.4%を占め、医療需要が大幅に高まる75歳以上は17.2%に達している(2025年9月15日現在、総務省統計局)。その結果、急性期を脱したあとの回復に時間を要し、退院できない患者が増加している。こうした状況のもと、退院後に自宅でできる限り自立した生活を送れるよう回復を支援する病院や、症状は安定していても医療依存度が高い患者に対して長期的な医療管理を担う病院の必要性が、これまで以上に高まっている。
人口減少に伴い病床を減らし、医療需要の変化に応じて病院の機能転換を促す国の方針は、理にかなっているといえる。今後は、地域に必要な医療需要を見通し、柔軟に変化できる"変われる病院"こそが、持続可能な病院と考えられる。
地域の医療の質を維持するためには、個々の病院の医療を「点」で捉えるのではなく、地域全体を「面」で捉える視点が重要である。機能と役割を明確にし、病院同士の連携、病院と診療所の連携を強化し、患者の状態に応じてそれぞれの医療が役割を発揮することがこれまで以上に期待される。
病院は診療科の縮小や再編・統合も必要となり、地域医療の最適化をどう実現していくかの旗振り役の手腕が問われる。一方、住民にとっては不便や不安が生じることもあるだろうが、それらを受け入れることが医療を長期的に守ることにつながるという理解を持ち、受け入れる姿勢が求められる。
くり返しになるが、病院や診療所などの医療機関は、かつてないほど厳しい経営環境に直面している。物価高騰や賃金上昇といった、医療機関の努力だけでは解決できない課題には、上昇分に見合う診療報酬の引き上げや補助金による支援が必要と考えられる。診療報酬は2年に一度しか改定されないため、賃上げや物価変動を完全に予測して織り込むことは難しく、その間に発生するコスト増が経営を圧迫している。
こうした状況から、急な物価変動に対応できる仕組みの必要性も指摘されている。しかし、主な収入源である診療報酬の上昇率が抑制され続けているのは、報酬を引き上げれば国民の医療費負担が増え、国民医療費全体の増加を通じて社会保険料の上昇につながるためである。
日本の国民医療費は、高齢化や長寿化の進展、高額な医療の普及によって増加の一途をたどり、50兆円に達しようとしている。診療報酬を1%引き上げれば、単純計算で年間医療費は約5000億円増加すると見込まれる。診療報酬を抑制すれば医療機関の経営が苦しくなり、引き上げれば国民負担が増える...このジレンマにどう向き合うかは、国だけでなく国民全体が共有すべき課題である。
1955年、日本医師会会長であった武見太郎氏は「老人の増加にどう対処するか」(昭和30年3月号『中央公論』)という論文を寄稿し、将来的に高齢化が日本の社会保障制度に及ぼす影響への懸念をすでに示していた。
高齢化は予測可能であったにもかかわらず、1973年から約10年間続いた老人医療費無料化を含む日本の医療政策が、真に将来を見通したものであったかどうかには疑問が残る。医療は安価かつ自由に受けられるものという"受診文化"を形成してしまったことが、その後も続く医療費増加の一因となったことは否めない。
WHO(世界保健機関)が「日本の医療は世界一」と評価したのは2000年である。国民皆保険制度によって、低価格で質の高い医療に自由にアクセスできる点が高く評価された。
その前後10年ほどの国内の医療環境を振り返ると、診療科の細分化が進み、高度な医療機器が積極的に導入された。また、医療はサービス業であるという考えのもと、"患者様"への接遇やアメニティの充実が図られ、ホテルのような病院も登場した。テレビでは「スーパードクター」が人気を集め、「病院ランキング」や「名医ランキング」が出版されれば注目を集める時代でもあった。こうした流れのなかで、医療やサービスに対する期待が膨らみ、結果として本来の必要を超えた過剰ともいえる医療が一般化した側面もあったのではないか。
病院経営を含む日本の医療の質を安定的に維持するためには、医療財政の現状を理解し、医療機関の置かれた立場を踏まえたうえで、患者、家族、医療従事者、医療機関経営層、行政機関など"誰もが"適切な医療のあり方を見直し、人口減少に応じた地域医療の再編成を後押ししていくことが重要である。その先に、持続可能で豊かな地域医療の姿が拓かれていくことを願いたい。
更新:03月31日 00:05