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米軍ガンカメラが記録した6兆円戦艦『大和』特攻の瞬間

2025年08月22日 公開

栗原俊雄

米軍戦闘機から見た太平洋戦争 ガンカメラが捉えた空戦・空襲

現在の価値に換算して6兆8000億円の巨費を投じて建造された世界最大の戦艦「大和」。しかし実戦でわずか一度しか主砲を撃つことなく、最後は沖縄への特攻で海の藻屑と消えた。米軍ガンカメラには、無謀な水上特攻で次々と撃沈される日本艦隊の様子が記録されている。藤原耕氏・栗原俊雄氏の共著『米軍戦闘機から見た太平洋戦争 ガンカメラが捉えた空戦・空襲』(光文社)より一部を紹介する。

※本稿は『米軍戦闘機から見た太平洋戦争』(光文社刊)より一部抜粋・編集したものです

 

世界最大の戦艦として誕生

米軍戦闘機から見た太平洋戦争 ガンカメラが捉えた空戦・空襲
【戦艦「大和」 1944年10月26日】B-24爆撃機から撮影された「大和」。艦首右前方に至近弾が炸裂している。

本章で取り上げる戦艦「大和」は太平洋戦争開戦の8日後、1941年12月16日に竣工(しゅんこう)(完成)した。主要データは全長が263メートル、最大幅38.9メートル。基準排水量(戦時を想定した乗員を乗せ兵装、弾薬、食糧、真水などを定量積んだ状態。ボイラーで蒸気発生に使う予備缶水と燃料は対象外)が6万5000トン。

「大和」は、同時代の他国、アメリカ、イギリス、ドイツ、イタリア、フランスのどの主力戦艦よりも巨大だった。

戦艦の存在価値である主砲は、45口径46センチ3連装砲塔で、3基計9門。「45口径」とは、砲身が口径の45倍あることを意味し、「大和」の砲身は約20.7メートル。砲身は長い方が初速が早く、貫通力が増す。

当時他国の戦艦で、主砲が最大なのはアメリカの「ワシントン」型であり40.6センチ砲9門であった。「大和」は主砲が他国より大きいことだけでなく、射程も図抜けていた。最大射程は42キロ。東京と神奈川県の大船、あるいは京都と大阪の距離に当たる。アメリカ他他国の戦艦は40キロ未満だった。計算上、「大和」は敵弾の届かないところから一方的に敵を攻撃できることになる。それが「アウト・レンジ」と呼ばれた戦法だ。

 

巨額建造費の背景

「大和」建造の費用はおよそ1億3780万円。当時の国家予算(一般会計歳出)の6%に当たる。2024年度の約113兆円をもとにすれば、約6兆8000億円となる。

海軍が巨額の国費を投じて「大和」を造ったことには、いくつかの背景がある。まずは海軍の戦略思想だ。海軍は1905年、日露戦争における日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を迎撃し、世界海戦史上でまれな完勝を収めた。これが「成功体験」となった。日本近海に押し寄せてくる敵主力艦隊を、艦隊決戦で壊滅させる。それが日本海軍の戦略だった。

さらに、国力の問題があった。第一次世界大戦終結後、世界的な軍縮が進んだ。海軍では1922年にワシントン海軍軍縮条約、30年にはロンドン海軍軍縮条約が締結された。それぞれ戦艦と航空母艦(空母)と、補助艦船について各国の保有の上限が決まった。日本は米英に対して保有トンで少なく抑えられた。両条約が失効し無条約状態になっても、国力の違いから特にアメリカと同等の海軍力を物理的に保つことは困難だった。

いやが応でも「量より質」とならざるを得なかったのだ。その「質」で重要だったのが、当時は海軍戦力の主力とされた戦艦だった。それゆえ「大和」が建造され、姉妹艦の「武蔵」も誕生した。戦力で圧倒的に勝る米英など連合国軍と戦うためには、自軍の損失は最小限にし、戦果は最大限にしなければならない。その狙いから生まれたのが「アウト・レンジ」だった。

 

完成と同時に時代遅れとなった巨艦

しかし、「大和」は完成と同時に「時代遅れ」の兵器となりつつあった。1941年12月8日、他ならぬ日本海軍の機動部隊(空母を基幹とする艦隊)がハワイの米太平洋艦隊に壊滅的な被害を与えた。戦いの主力は戦艦から空母に移ろうとしていた。空母は艦載機を搭載し洋上で発着させる、いわば海の航空基地だ。その空母複数を基幹とする機動部隊が戦術の主役となっていった。

しかし、太平洋戦争を通じて、「大和」に期待されたような日米主力艦同士による艦隊決戦は起こらなかった。戦争が進むにつれて、「大和」以下の戦艦は機動部隊の護衛を務めることとなる。

米軍戦闘機から見た太平洋戦争 ガンカメラが捉えた空戦・空襲
【戦艦「大和」 1944年10月26日】B-24爆撃機から撮影された「大和」(赤線内)

 

サマール沖海戦での唯一の実戦

その「大和」が敵艦に主砲を放ったのが、1944年10月であった。それまで日本が占領していたフィリピンを奪回すべく、米軍が来襲・上陸した。フィリピン海域で日米両軍による四つの海戦が起こった。総括して「レイテ沖海戦」と呼ばれることがあるが、その一つが本書で取り上げる「サマール沖海戦」だ。

同月17日、米軍がフィリピン・レイテ湾口にあるスルアン島に上陸を始めた。これを撃退すべく、連合艦隊は3艦隊に分けて残存する戦艦9隻すべてと軽・重巡洋艦、駆逐艦多数を出撃させた。主力は栗田健男(くりたたけお)中将率いる「栗田艦隊」で、「大和」と「武蔵」「長門」と歴代の連合艦隊旗艦を中心に戦艦5隻、重巡洋艦10隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦15隻。ボルネオ島のブルネイから南シナ海を進み、フィリピンのシブヤン海からサンベルナルジノ海峡を抜けて太平洋に出て南下、レイテ湾に殴り込んで米上陸部隊を粉砕する、というもくろみだった。

航路は約2200キロ。結論から言えば作戦は失敗した。航空機の援護がほとんどない中、米軍機の執拗(しつよう)な攻撃を受け、「武蔵」以下多数の艦船を失った。その後、艦隊は6隻の護衛空母と駆逐艦7隻からなる米艦隊と出くわした。米艦隊は会敵に気がつき、煙幕を張りながら退避を始めた。「大和」以下が砲撃を開始、米艦隊も艦載機を発進させるなどし、乱戦となった。「大和」はこの戦いで主砲124発を放った。戦果は米空母「ガンビア・ベイ」と駆逐艦4隻の撃沈であった。ただ、これは正規空母ではなく商船を改造した小型空母であった。「大和」の主砲が敵艦に当たったかどうかは分からない。戦艦「金剛」や重巡洋艦「利根」なども砲撃を行なっていたため、これらの砲撃の成果かもしれない。

この戦闘の後、「栗田艦隊」はレイテ湾まで約80キロの距離から引き返した。駆逐艦などに比べて足の遅い「大和」でも、あと1時間も進めばレイテ湾が射程に入る距離だった。

世界最大の主砲で敵艦隊を撃滅するために建造された「大和」だが、実際に敵艦に主砲を撃ったのは、この時の一度だけだった。「武蔵」はその一度の機会すらないまま、深海に沈んだ。

 

使い道に悩む連合艦隊

レイテ沖海戦では「大和」も損傷した。1944年11月24日、母港である広島県呉に帰ってきた。艦隊の再編がなされ、「大和」は空母「信濃」などとともに「第2艦隊」を編成した。「信濃」はもともと「大和」型戦艦の3番艦として計画され起工したが、空母に変更された。同年11月19日に竣工したばかりで、世界最大の空母(基準排水量6万トン余り)だった。だが同月28日、横須賀から呉に向かう途中で米潜水艦の雷撃を受け、紀州半島の潮岬(しおみさき)沖で沈没した。わずか10日の「生涯」だった。

このころ、連合艦隊は「大和」の使い方に悩んでいた。艦隊決戦が起こるはずがないことは、海軍首脳も理解していただろう。さらに燃料不足で訓練さえままならなかった。巨大な「大和」は、作戦行動をしなくてもその燃料を大量に消費する。

「使い道」が決まらないまま呉の海に浮かんでいた「大和」を、米軍機が襲ったのは1945年3月19日。大きな被害はなかった。

結局、「大和」は特攻に使われることになる。

 

沖縄への海上特攻

米軍戦闘機から見た太平洋戦争 ガンカメラが捉えた空戦・空襲
【戦艦「大和」 1944年10月26日】B-24爆撃機から撮影された「大和」。白く太い航跡を描きながら、取舵いっぱいで左に大きく旋回している。艦尾後方に爆弾の噴煙が立ち上がる。

1945年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸した。連合艦隊は、沖縄の日本軍守備隊と連携すべく「大和」以下、第2艦隊の計10隻の艦隊が沖縄に向けて同月6日、山口県・三田尻(みたじり)沖を出撃した。

特別攻撃隊(特攻)といえば、爆弾を積んだ飛行機もろとも搭乗員が敵艦に突っ込む航空特攻が広く知られている。航空特攻は1944年10月、フィリピン戦線で海軍が始めた。「九死に一生」どころか「十死零生」の「作戦」で、推進した大西瀧次郎(おおにしたきじろう)中将自らが「統率の外道(げどう)」と断じた。

この航空特攻以外にもさまざまな特攻があった。「大和」艦隊の「海上特攻」はその一つ。深刻な燃料不足の中、連合艦隊の命令は「片道燃料」であった(実際は現場の判断で往復可能な分が積まれた)。

沖縄を取り囲む米艦船を撃破する。最後は海岸に乗り上げて砲台になる。そんな「作戦」であった。しかし待ち受ける膨大な米艦船群にわずか10隻の艦隊が突入したところで、戦況を好転させる可能性は低かった。それ以前に、制空権も制海権も米軍に握られている状況で、沖縄近海にたどり着くことさえ困難だった。

第2艦隊の司令長官だった伊藤整一(いとうせいいち)中将は、水上特攻に納得しなかった。連合艦隊側に「要するに一億総特攻の先駆けになってもらいたい」と説得され、「それなら分かった」と同意した。戦果は二の次だった。特攻自体が目的になっていたのだ。航空機の護衛がない「裸艦隊」であった。

 

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