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出町譲 鈴木貫太郎親衛隊が語る昭和天皇による玉音放送の舞台裏

2015年09月06日 公開
2022年06月28日 更新

出町譲(ジャーナリスト)

『Voice』2015年2015年9月号より》
 

日本のいちばん長い朝

生涯の師匠・四元義隆

 日本の歴史上、最も重大な政治決断は、ポツダム宣言受け入れだろう。それを決断したのは昭和天皇と総理大臣の鈴木貫太郎である。貫太郎は「戦争継続」「本土決戦」を叫ぶ陸軍の主戦派から命を狙われていた。貫太郎を守るため、官邸のなかに極秘の組織がつくられた。「鈴木貫太郎親衛隊」である。

 歴史の正史には存在せず、戦後長く封印されてきた「鈴木貫太郎親衛隊」。その生き残りが、いまも函館で静かに暮らしている。90歳の長松幹榮だ。私は、戦後70年を迎えるに当たり、長松に何度もインタビューしてきた。

 私は戦争で命を奪われそうになった人の証言を聞くことがあるが、戦争を止めるために命を懸けた人の証言は初耳だっただけにじつに刺激的だった。この老人は70年前の「8・15」の攻防劇を鮮明に覚えていた。

 長松がまず見せてくれたのは、自らの身分証だ。古ぼけていて、文字は辛うじて読み取れる。勤務地は内閣総理大臣官舎。交付日は昭和20(1945)年8月12日。終戦のわずか3日前だ。この身分証には、「内閣嘱託」という肩書が明記されている。

 「四元義隆さんは、本当に深い人なのです。右翼の大物というと、軍国主義を煽った人物のように思われるかもしれませんが、まったくそれは違います。いかにして戦争を止めるか。それを必死になって考え、行動したのです。私にとっては生涯の師匠です。私がこれまでの人生を過ごせたのは、四元義隆先生とお兄さんの四元義正先生の薫陶を受けたからです」。のっけから飛び出した「四元義隆」という名前。戦前から右翼の大物として知られていた四元義隆は戦後、「政界の黒幕」と呼ばれ、歴代の総理大臣を指南してきた。吉田茂の懐刀となったのを皮切りに、池田勇人、佐藤栄作、中曽根康弘、そして細川護熙などに助言してきた。

 とりわけ有名なのは、中曽根との親交だ。中曽根は五年間の任期中、167回も台東区にある全生庵に出向いたが、座禅を指示したのは四元だった。

 ちなみに総理大臣の安倍晋三は、8年前に病気で辞任した際、月に一度全生庵に通い、座禅を通じて体調が回復した(今年7月24日にも参禅)。中曽根にとって四元は最大のブレーンで、節目、節目で相談を受けた。

 マスコミ嫌いで知られていた四元だったが、田原総一朗のインタビューには答えている(1995年6月号『中央公論』「『戦後50年の生き証人』に聞く(6)」)。インタビューで四元は、総理就任を固辞していた鈴木貫太郎を、高僧として知られていた山本玄峰〈げんぽう〉に引き合わせたことを明らかにした。

 「玄峰老師がまっ先に言われたのは、『こんなばかな戦争はもう、すぐやめないかん。負けて勝つということもある』ということでした。鈴木さんも『もうひとつの疑いもなく、すぐやめないかんでしょう』と、意見が一致したんですよ。その帰り、車の中で玄峰老師は、『もう大丈夫だ。こういう方がおるかぎり、日本は大丈夫だ』と言いましたね」。それから十数日後に、鈴木貫太郎は総理に就任した。

 四元は戦前、国粋主義者のテロリストとして知られていた。大蔵大臣の井上準之助や三井財閥の團琢磨らを暗殺した昭和7(1932)年の血盟団事件の首謀者の一人だったためだ。戦中は、近衛文麿や鈴木貫太郎の秘書役を務め、東条英機への反旗を鮮明にしていた。「東条は日本を亡ぼす。このままでは危うい。この戦争は止めなければならない」と、重臣らを説得して回った。東条暗殺計画を企てたともいわれている。

 こんな四元を師匠として尊敬する長松は「鈴木貫太郎親衛隊に入るきっかけは高峯道場でした」と語った。

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