2025年08月20日 公開

太平洋戦争で日本が敗北した要因の一つに、海上輸送ルートの壊滅がある。日本海軍は戦艦を中心とした艦隊決戦に力を入れる一方、輸送船を守る護衛艦隊の役割を軽視していた。米軍のガンカメラには、次々と撃沈される日本の輸送船の様子が記録されている。藤原耕氏・栗原俊雄氏の共著『米軍戦闘機から見た太平洋戦争 ガンカメラが捉えた空戦・空襲』(光文社)より。栗原氏執筆の冒頭部分を紹介する。
※本稿は『米軍戦闘機から見た太平洋戦争』(光文社刊)より一部抜粋・編集したものです
大日本帝国は1904~05年の日露戦争で勝利し、満州(現中国東北部)を勢力下に収めた。ここを拠点に中国侵略を進め、1937年には日中戦争につながった。そうした日本の侵略にアメリカは反対していた。一方で、中国の蔣介石(しょうかいせき)政権に兵器を供与するなどして支援した。
1939年9月にナチスドイツとフランス・イギリスとの戦争が始まった。フランスは1940年6月、ドイツに降伏した。フランスの植民地だった「仏領インドシナ」(現在のベトナムなど)は宗主国を失い、国際政治上の空白地帯となった。日本は1940年9月23日、北部仏印(現ベトナム北部)に軍隊を送った(進駐)。石油など戦略資源が豊富な南方を獲得する好機だった。英米などによる、蔣政権への支援物資補給路(援蔣介ルート)を断つ狙いもあった。
アメリカはくず鉄など戦略物資の禁輸で応じた。日本はさらに翌1941年7月2日、天皇が臨席する「御前会議」で南進を優先し、状況に応じ北進(対ソ戦)することを決めた。アメリカは在米日本資産を凍結してしまった。
それでも同月28日、日本軍は南部仏印に進駐した。態度をさらに硬化させたアメリカは、対日石油輸出を禁止した。日本の政府と軍首脳は、これをまったく予想していなかった。
アメリカは南進を続ける日本に対して「何をするか分からない。フィリピンにも手を伸ばしてくるかもしれない」との疑心を持ってしまった可能性がある。フィリピンはアメリカの植民地だった。近い将来の独立が決まっていたが、アジアにおけるアメリカの拠点であった。日本側の見込みが甘かったのだ。
当時、日本は石油の約7割をアメリカからの輸入に頼っていた。禁輸は経済的にも軍事的にも大きな打撃であった。当時、国策は政府と統帥部(とうすいぶ)(陸軍参謀本部、海軍軍令部)首脳による「大本営政府連絡会議」で話し合っていた。その決定は御前会議で裁可された。会議では天皇は発言しないことになっていた。
同年9月6日の御前会議で昭和天皇はこの慣習を破った。明治天皇の和歌、「四方(よも)の海皆同胞(はらから)と思ふ世になど波風の立ち騒ぐらむ」を詠み上げた。「避戦」のための、異例の発言だった。だが、この日決定された「帝国国策遂行要領」では「10月下旬をめどに対米英蘭戦争の準備を完成させる」ことが決まった。外交は継続するものの、10月上旬ごろまでに要求貫徹のめどが立たない場合は「直ちに開戦を決意」することを決めた。
時の首相、近衛文麿(このえふみまろ)は対米開戦を避けようとしていた。まず、①昭和天皇から「避戦」の約束を取り付ける、②ルーズベルト米大統領と直接交渉する、③軍部に相談なく和平を確保する、という構想を持っていた。だが実現しなかった。陸軍は、アメリカが要求していた中国からの撤兵を頑として拒否し、近衛内閣は総辞職に追い込まれた。昭和天皇は陸軍開戦派の急先鋒だった東条英機(とうじょうひでき)を首相に選び、戦争に突き進んだ。

【フィリピン レイテ島 オルモック 1944年11月10日】B-25爆撃機の攻撃を受ける輸送船「香椎丸」(大阪汽船 8417総トン)。この 後、爆弾がガソリンに引火したところに、別の爆弾が命中し、沈没した。
国力ではるかに勝るアメリカと、どう戦うつもりだったのか。日米間には圧倒的な国力差があった。独力でアメリカを屈服させることは不可能だということは当時の日本政府、軍首脳とも承知していた。では、どのように戦争を構想したのか。
くわしくは第4章でみるが、概略を述べると以下の通りだ。
石油などを産出する南方地帯を占領し、戦争継続に必要な資源を確保する。そして、ドイツとともにイギリスを屈服させる。そうすると、イギリスの同盟国であるアメリカが戦意を失うので、頃合いをみて講和に持ち込む、という「構想」であり、「勝てないまでも負けない。きりのいいところで講和に持ち込む」という「戦略」だった。
地理的な条件から、日本がイギリス本国を直接攻撃することはできず、ドイツ頼みとなる。ところが、ドイツは海軍力に乏しく、英本土上陸を果たし屈服させられるかどうかは未知数だった。またかりに実現しても、それでアメリカが戦意を失うとは限らない。「自分たち一国でも、ファシズムと戦う。民主主義を守る」と、かえって戦意を燃やす可能性もあった。ところが、大日本帝国の為政者(いせいしゃ)たちは、そうした自分たちに都合の悪い可能性は排除し、願望の上に希望を重ねたような「構想」で戦争へと進んでいった。
この「構想」でさらに重要なのは、「戦略的自給圏確保」すなわち戦略物資を海外で調達するとしていることだ。兵器の生産と維持、さらに国民生活を維持するためには、それらを日本本土に運ぶ必要がある。つまり海上輸送ルートが確保されていることが前提だった。
当然ながら、米英など連合国は日本のその補給ルートを攻撃してくる。
どれだけの被害を受けるのか。海軍軍令部第4課が1941年10月下旬、開戦2か月前に試算した。「泥縄式」のような性急さだが、試算の結果は戦時下の1年あたりの船舶の沈没は最大で100万総トン、であった。
「これくらいの消耗ならば、新造船との兼ね合いで輸送力は確保できる」、という見立てだった。
同課が元にしたデータは、第一次世界大戦(1914~18年)のものだった。ドイツ軍潜水艦などによる連合国の船舶消耗量は1年平均で281万トンだった。ところが、第二次世界大戦が始まった1939年9月~41年5月で、イギリスなど連合国や中立国の消耗船舶は670万総トンで、直近の過去1年では510万総トンに及んでいた。1年あたりで第一次世界大戦の2倍近くに及んでいたのである。重要なことは、このデータを陸軍と日本郵船が把握していたことだ(岩間敏『日米開戦と人造石油』朝日新書)。
海軍もこのデータを知っていた可能性が高い。とすれば、あえて古いデータを用いて被害想定を低く見積もり、政府に提出したことになる。陸軍だけでなく、海軍の幹部の中にも開戦に前のめりな声があった。なぜなら時間がたてばたつほど、日本とアメリカの国力の差が開くからであり、備蓄していた石油が減っていくからだ。

【ベトナム沖 1945年3月29日】B-25爆撃機の攻撃を受け、「第18号海防艦」の艦前方では火災が起きている。対空機銃、高角砲を操作する兵員が足らず、もはや対空戦闘能力はない。
1941年12月8日、日本陸軍はイギリスが統治していたマレー半島のコタバルに上陸、海軍はハワイ真珠湾で米太平洋艦隊を奇襲し、太平洋戦争が始まった。緒戦は各地で勝利を重ねたものの、アメリカが戦時体制を整えるにつれ日本軍は劣勢に転じ、フィリピンなど開戦後占領していた南方地域を米軍に奪取されていった。インドネシアや現在のマレーシアといった資源地帯は占領したままだったが、そこで資源を得ても制海権がなく国内に運ぶことができなくなった。
もともと、日本海軍は戦艦を中心とした艦隊決戦に力を入れる一方、輸送船を守る護衛艦隊の役割が軽視されていた。さらに戦局の悪化に伴い、制空権、制海権が米軍に奪われることになり、日本の輸送船は空襲や潜水艦の雷撃で次々と撃沈された。米軍のガンカメラでは、輸送船が米軍機の機銃掃射や爆撃を受ける様子が記録されている。急ごしらえで機銃を置いた船もあったが、もともと軍艦ではないため装備は貧弱で、爆弾の直撃はもちろん至近弾でも破損、沈没の可能性もあった。
開戦時、日本の海運会社は世界第3位となる630万トンを保有していた。戦時下でも造船は進んだが、それをはるかに上回るペースで喪失し、1945年8月の敗戦時には150万トンにまで減少していた(日本郵船歴史博物館)。
深刻な船舶不足となり、漁船まで輸送に使われた。多数が被害に遭ったと思われるが、実数は分かっていない。兵器の原材料のみならず食糧の輸入もままならなくなり、国民が飢える中で戦争は終わった。
更新:08月24日 00:05