今のように船や飛行機のような長期移動手段が当たり前にはなかった頃、国の国力は国が持つ物資や資材によって繫栄が影響を受けていた。また、それらを輸送できる技術を持っているかどうかで世界的に活躍する国は巡るように変わっていった。
世界史を物流を軸に見ることで、これまで気づいていなかった国々の繁栄と衰退の流れを簡単に追うことができる。例えば、世界最大の茶の消費国イギリスは、どのようにして茶を輸入していたのだろうか。
※本稿は『物流で世界史を読み解く 交易、移民問題から食文化の革新まで』より抜粋・編集を加えたものです。

18世紀のフランスは、大西洋貿易ではイギリスと争うほどに貿易量を拡大させた。場合によっては、イギリスよりも貿易の成長率は高かった。しかしアジアでは、そこまで大きな活動はできなかったようだ。
フランスも英蘭と同様に、1604年に東インド会社を創設し、1664年に同社を国営会社とした。1719年は、インド会社となり、東西インドの貿易をおこなったが、1731年にはアフリカとルイジアナが切り離され、ふたたび東インド貿易に専念することになった。その後、同社は1795年に清算された。
フランスの東インド会社は、茶の輸入で大きな役割を果たした。そして同社は輸入した茶を、スウェーデン東インド会社と同様、イギリスに密輸していたのである。
フランスにおける東インド貿易の根拠地は、ブルターニュ地方のロリアンにあった。17世紀終わり頃のブルターニュの人口は約200万人であり、フランスの総人口の10パーセントを占めていた。
上記地図にあげた港湾都市のうちサン・マロはスペインに繊維品を供給し、フランス中の製造品をスペインに送った。サン・マロは太平洋貿易にまで乗り出した世界中と結びついた都市であり、1713年にこの都市を出港したグラン・ドーファン号は、南米大陸最南端のホーン岬をへて、繊維品(リネン)をペルーに輸送したのち、アメリカ銀で中国商品を購入し、フランスに戻った。
もともとアメリカ産の銀は、中国で製品を買いつけるための代価であったが、18世紀のうちに繊維品、貴金属、奢侈品も代価として使われるようになり、アメリカ銀の使用頻度は相対的に低下した。
フランスのおもだった商品は、コーヒーと茶であり、茶の輸入量は、17世紀終わり頃の10万〔重量〕ポンドから、18世紀後半の200万ポンド弱へと急増した。さらに香辛料と胡椒、そして綿が重要な商品であった。
ここで注目すべきは、茶の輸入である。スウェーデンと同じく、フランスも茶ではなくコーヒーの消費国である。したがってこの茶は、世界最大の茶の消費国イギリスに密輸された可能性が高い。
フランスの茶の輸入を扱ったデルミニの研究によれば、1749〜64年にかけて広州からフランスが輸入した茶の総額は、年平均で1192万5288リーヴル、1766〜75年は、1288万5739リーヴルであった。そのうちブルターニュが占める割合は、それぞれ42.7パーセント、50.2パーセントであった。この時代を通じて、フランスの茶の輸入総額のうち、ブルターニュが占める比率は82.5パーセントであった。
その多くはブルターニュの都市ナントに輸出されていた。18世紀のナントは奴隷貿易をした貿易都市として知られるが、広州からの茶の輸入も重要であった。さらにフランス東インド会社の輸入品として、茶がコーヒーよりも多いこともあった。
ブルターニュに輸入された茶は、主としてイギリスとオランダに輸送された。イギリスへの輸出は、多くが密輸であった考えられる。オランダからどこにいったかはむろん詳らかではないが、イギリスに再輸出されるものもあったであろう。ブルターニュの茶は、高級であったので、イギリスの富裕層に飲まれたと推測されている。
イギリスは、一人あたりに換算すると、おそらく18世紀では世界有数の茶の消費国であった。しかし、その茶はイギリス東インド会社が輸入したものとはかぎらなかった。
そもそも、イギリスや英仏海峡、さらに北海に接する国々がおこなう中国との貿易は、イギリス人の多くが茶を飲むようになったことを基盤としていた。1784年に減税法が導入される以前には、密輸される茶の量は400万〜600万ポンドともいわれ、なかには750万ポンドという説をとなえる研究者もいる。このように17世紀中頃には、茶の密輸は例外的とはいえない現象になっていた。
ヨーロッパ人にとって、茶は、重要な密輸品であった。たとえば、広州からハンブルクに茶が輸出されているが、この都市の後背地はエルベ川流域、さらにはバルト海地方であるので、そこに茶が輸出されたとは考えられない。ハンブルクは「小ロンドン」と呼ばれたほどロンドンとは密接な関係にあったのだから、ハンブルクからロンドンに密輸されたと推測できる。
密輸を促したのは、イギリスの茶に対する関税率の高さであった。1784年に減税法が導入されるまで、茶に対する関税率は80パーセントを下回ることはほとんどなく、100パーセントを超えることも珍しくはなかった。
減税法により、密輸への誘惑は減った。イギリス東インド会社が販売した茶の額は、1783年が586万ポンド、1784年が1140万ポンド、1785年が約1508万ポンドと、大きく増加した。これは、密輸量が大きく低下したためであろう。
しかし、減税法以前には、おそらくイギリスへの最大の茶の密輸国はフランス、ついでスウェーデンであった。フランスからは高級茶、スウェーデンからは低級茶が密輸入された。両国は、イギリスが世界最大の茶の消費国になることを助けたのである。
日本では川北稔が、「東インドの茶と西インドの砂糖が一つのティーカップに入れられることにより、世界は一つになった」と表現した。それは同時に、イギリス帝国の拡大を物語る。
しかし砂糖とは異なり紅茶は、イギリスの船で東インドや中国から合法的に輸入したものとはかぎらなかった。密輸された茶がなければ、イギリス人は、これほどまでに茶を飲む国民にはならなかったかもしれないのだ。
茶という商品の物流は、密輸によっても拡大した。広州からヨーロッパ大陸、さらにイギリスへと、密輸の道が開かれていったのである。
更新:04月20日 00:05