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米ソの雪融けから一転...大統領選で、民主党に勝利をもたらした「共和党のしくじり」

2024年10月21日 公開
2024年12月16日 更新

神野正史(元河合塾世界史講師)

アイゼンハワー大統領がフルシチョフとの握手で"雪解け"をアピールしたのも束の間、U2型機撃墜事件が勃発し、米ソ関係は再び緊張状態に...。その後もキューバ危機や、ヴェトナム戦争での北爆など、"緊張"と"緩和"を繰り返す瀬戸際外交が続いた。こうした米ソの関係が、大統領選挙とどのように結びついていたのか、書籍『教養としてのアメリカ大統領選挙』から解説する。

※本稿は、神野正史著『教養としてのアメリカ大統領選挙』秀和システム)から一部を抜粋・編集したものです。

 

「雪融け」へ

ソ連でもスターリンの死後しばらくは"ポスト・スターリン"の座を巡って後継者争いが起こっていましたが、やがてフルシチョフがこれを制すると、彼は「社会主義の正義」を固く信じていたため「冷戦」からの脱却を目指すようになります(※1)。

まず1955年には「ジュネーヴ四巨頭会談(※2)」を提唱して米・英・仏・ソの全権が平和共存について話し合う場を設け、翌56年には国内の冷戦推進派(スターリン主義者)を一掃せんと「スターリン批判」を実施したばかりか、58年にはソ連書記長として史上初めて訪米を果たし、空港でアイゼンハワーと固い握手を交わしています。

米アメリカ国務長官のダレスだけは断固「冷戦続行!」を叫びましたが、アイゼンハワーはこれを抑え、以降米ソの平和共存を模索する時代「雪融け」段階へ入っていきます。

 

[注釈]

(※1)もし「社会主義が正しい」とするなら平和を維持した方がよい。なぜならば、ふつうに経済活動していればかならずソ連が勝利するのだから。にもかかわらず、もしこのまま冷戦を続行して「第三次世界大戦(核戦争)」にでもなったら、せっかく勝てる戦が"米ソ共倒れ"となって元も子もなくなるためです。

(※2)結局たいした成果はありませんでしたが、なんとかこれを和解の足がかりにしたいと願った米ソは「これからは平和共存路線でいこうという確認がされた(ジュネーヴ精神)」と、むりやりその"成果"をアピールしました。

 

U2型機撃墜事件

アイゼンハワーもまた「2期8年」を務めあげることになりましたが、ポスト・アイゼンハワーを決める大統領選が行われたその年(1960年)、米ソの関係が致命的に悪化する事件が起こってしまいました。

それが「U2型機撃墜事件」です。

アイゼンハワーは、その右手でフルシチョフと固い握手を交わして世界に対して「雪融け」をアピールしながら、もう片方の手ではソ連に「U2(※3)」を飛ばす指示を出していたわけです。その「U2」が撃墜されたことで、パリで予定されていた米ソ首脳会談は中止、「雪融け」ムードは一気に終焉を迎えてふたたび米ソ関係に緊張が走ります。

 

[注釈]

(※3)現在(2024年)でも現役の合衆国のスパイ機。成層圏(高度2万m)から高精細カメラで地上を撮影できる。

 

J・F・ケネディ登場

U2を撃墜したフルシチョフの厳重抗議に、アイゼンハワーは初めすっ惚けます。

「それは民間機か何かだろう。」

アメリカ合衆国とてバカではありませんから、こうした事態に備えてU2のパイロットには証拠隠滅用の爆破装置と自殺用毒薬が与えられていましたから、「どうせ何の証拠もない」と思ったからです。

ところが、実際にはU2型機パイロット、G・パワーズは証拠隠滅も図らず、毒薬も呑まず、おめおめとソ連官憲に捕縛されたばかりか、事の次第をべらべらと白状していたのでした。この曝露を受け、政府はもはや言い逃れが効かなくなり、開き直ります。

──確かに偵察はしていたが、それがどうした!? 国家として当然の権利だ!

しかし、時は大統領選挙の真っただ中。こうした共和党の"しくじり"が大統領選に悪影響を与えたことは否めません。

しかも、このときの大統領選は史上初めて「TV討論会(※4)」が導入されたことで有名ですが、これがケネディの勝利に一役買ったと言われています。

このときのTV討論会では、議論としては共和党候補のR・ニクソンの方が優勢であったにもかかわらず、民主党候補J・F・ケネディの方が見た目に若々しく(※5)端正な顔立ちで"TV映え"したことで支持が逆転しているためです。

 

[注釈]

(※4)「TV討論会」が始まったことによって、以降、見た目が男前だとか服装のファッションセンス、候補の些細な失言・ちょっとした所作、その場の雰囲気など、大統領候補の一挙手一投足・一言半句が選挙結果を大きく左右するようになりました

(※5)実際の年齢は、当時ケネディが43歳・ニクソンが47歳でわずか4歳差でしたが、ニクソンは前日まで選挙活動に邁進して疲労困憊していたのに対し、ケネディは前日を丸一日休養に充てていたため、精気みなぎりはつらつとしていました。

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【歴史視点①】大統領選挙の結果は過去3年間の実績より最後の1年の成果に大きく左右される。最後の年に大きな成果を挙げれば現職が勝ち、失態を演ずれば負ける。

【歴史視点②】TV討論会が導入されて以降、このときの国民支持で大差を付けた方が当選確実となる。

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危機から緩和へ

こうして新たに官邸の主となったのは、民主党のケネディでした。彼が大統領の椅子に座ったときすでに「雪融け」は崩れていましたから、これを受けて彼の好むと好まざるとにかかわらず"危機の時代"を歩むことになります。

そもそも「雪融け」などといえば聞こえはいいですが、それは「米ソが心から相手を信頼し合い、心を通じ合わせた」という類のものではなく、実態は「冷戦が行き詰まったから、とりあえず"形だけ"満面の笑みで握手を交わしておいて、その隙に相手を出し抜く手を模索していただけ」なので、こんなものが長続きするわけもありません。

実際、「雪融け」の只中にあっても、米ソの利害がぶつかるベルリンやキューバなどではその水面下で熾烈な駆け引きが行われていました。

ケネディは大統領就任早々、ウィーンでフルシチョフと話し合いの場(ウィーン会談)を持って関係改善を模索しましたが、「ベルリン問題」がこじれて決裂したのもそうした背景があったためです。

ウィーン会談ののち、ただちにフルシチョフは「ベルリンの壁」を建設して欧州に緊張を走らせ、さらに秘密裡のうちにキューバに核ミサイル基地の建設を実行します。これが「U2」によって露見したことで「キューバ危機」が勃発、「核戦争」寸前までいったことは有名です。

このときは、フルシチョフが一歩退いたことで核戦争はぎりぎりのところで回避されましたが、この件で米ソは「我々が武力衝突すれば人類文明そのものが存亡の機に直結する」ことを実感します。

そのためケネディ大統領は、「部分的核実験禁止条約(※6)」や「莫華ホットラインの開設(※7)」、さらには「ヴェトナム撤退表明」など米ソの関係改善に努めます。

こうしてふたたび歴史は"緩和(デタント)"へと揺り戻しが起こったかと期待されましたが、その直後、ケネディは志半ばで暗殺され、その翌年にはフルシチョフが失脚し、こうした努力も水泡に帰してしまうことになります。

 

[注釈]

(※6)正式名は「大気圏内、宇宙空間および水中核実験禁止条約」です。つまり、地下実験は認められていたということです。

(※7)ダイヤルを回すことなく受話器を上げるだけで相手につながる直通回線のこと。

 

緩和から危機へ

ケネディ暗殺を受けて副大統領から昇格したのがL・B・ジョンソンです。

大統領選挙という"洗礼"を受けずに大統領となった彼でしたから、自らの正統性を示すべく、「ケネディの遺志を継ぐ者」とアピールしてケネディのやり残した「公民権法」を成立させ、さらに「偉大なる社会」を惹句に社会福祉の充実・貧困の克服に尽力します。そのおかげもあって次の大統領選でも勝利することができました(※8)。

しかし、外交面ではケネディの融和政策に反して、ヴェトナム戦争に本格的軍事介入を図る「北爆」を開始したため米ソ関係は悪化していきます。

このように、ケネディ・ジョンソン2代にわたる民主党政権は、緊張が緩和を生み、そうして生まれた緩和が緊張を生む"瀬戸際外交"がつづくことになりました。

 

[注釈]

(※8)ケネディ暗殺に対する"同情票"という側面も大きかったようです。

 

緊張緩和へ

しかし、これ以上米ソ対立が進めば、その先に待ち受けるのは確実に「核戦争」です。

「冷戦」の一環として、両陣営による核開発競争が始まっていましたが、40年代に米ソ、50年代にイギリス、60年代には仏中とぞくぞく核保有国が増えていき、68年までにすべての国連常任理事国(米・英・仏・ソ・中)が原水爆を保有することになりました。

これ以上核保有国が増えれば、世界中のどこかで生まれた火種がただちに「核戦争」に発展しかねず、制御不能となるでしょう。

そうした危機意識から、1968年「核拡散防止条約」が締結され、これを契機に時代は新しい段階に入ります。それが「緊張緩和」です。

じつはこのころ、アメリカ合衆国はヴェトナム戦争への介入で戦費が財政を逼迫していましたし、ソ連・東欧諸国も農業政策の失敗により食糧自給が不可能となってきており、お互いに緊張緩和を望んでいたという経済的背景もありました。

そして、この"1968年"はアメリカ合衆国にとって大統領選の年でもあります。ジョンソン大統領は憲法規定上(※9)、この年の大統領選にも出馬できましたし、彼自身も意欲満々だったのですが、失政につぐ失政で国民に人気なくついに出馬を諦め、政権は共和党に移ることになります。

さらにいえば、F・ルーズヴェルトが慣例を破った(4期在職)ことから、戦後は同一人物が3期以上務めることが憲法で禁止されていましたが、のみならず、同一政党が3期以上政権を担うことへの嫌悪感も強くなったため、そうした背景も民主党の敗因となっています。

以降、ひとりの人物が「2期8年」務める場合、2人で「2期8年」務める場合があれど、3期目にはほぼかならず政権政党が交代するようになります(※10)。

 

[注釈]

(※9)「合衆国憲法修正22条」では、大統領が任期途中で職を継いだ場合(前大統領の暗殺・病死・失脚など)、残りの任期が2年未満の場合、これを継いだ大統領は3期目も立候補できる(合計で10年まで)という規定がありました。

(※10)その唯一の例外がG・H・W・ブッシュ(父)です。

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【歴史視点③】戦後は、同一政党が「1期で陥落」することもなければ、「3期以上つづく」こともなくなり、ほとんど「2期8年」ごとに政権政党の交代が起こるようになる。

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戦後の動向を振り返って

ここまで見てまいりましたように、戦後、「冷戦」「雪融け」「危機の時代」「緊張緩和」といった具合に「緊張」「緩和」「緊張」「緩和」を繰り返してきましたが、そのそれぞれの時代を担ってきた政権との関連を探ってみると、いつも緊張時代を牽引してきたのが「民主党」で、緩和時代を牽引してきたのが「共和党」であることに気づきます。

戦前までは「平時の共和党、戦時の民主党(※11)」という規則性がありましたが、"核の時代"となっておいそれと戦争ができなくなった戦後は、「戦時」ではなく"緊張"、「平時」ではなく"緩和"となって「緩和の共和党 、緊張の民主党」に移行していったと考えると、その変遷を理解しやすいでしょう。

さらに、戦後はここまでずっと「2期8年(民主党トルーマン)」「2期8年(共和党アイゼンハワー)」「2期8年(民主党ケネディ・ジョンソン)」ごとに政権交代が起こっていることを考えると、ここから「2期8年におよぶ共和党政権が緩和時代を牽引する」ことが予想されます。

 

[注釈]

(※11)実際、「第一次世界大戦」のときも「第二次世界大戦」のときも民主党政権で、第一次世界大戦前も戦間期も平時はいつも共和党政権でした。

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【歴史視点④】戦前までは「平時の共和党、戦時の民主党」、戦後からは「緩和の共和党、緊張の民主党」を原則とする。

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著者紹介

神野正史(じんの・まさふみ)

元河合塾世界史講師/YouTube神野ちゃんねる「神野塾」主宰

学びエイド鉄人講師。ネットゼミ世界史編集顧問。ブロードバンド予備校世界史講師。1965年名古屋生まれ。立命館大学文学部西洋史学科卒。自身が運営するYouTube神野ちゃんねる「神野塾」は絶大な支持を誇る人気講座。また「歴史エヴァンジェリスト」としての顔も持ち、TV出演、講演、雑誌取材、ゲーム監修なども多彩にこなす。

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