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葬儀は不要なのか? 禅僧と神父が説く「死を看取る」大切さ

2023年11月16日 公開
2024年12月16日 更新

横田南嶺 (臨済宗円覚寺派管長)、片柳弘史(カトリック宇部教会主任司祭・神父)

横田南嶺、片柳弘史

近年、お葬式や結婚式などの儀式を行わない人や、できるだけ簡単に済ませようとする人が多い。しかし、それらは本当に無意味なのだろうか。禅僧と神父が人生の節目における儀礼が持つ意義、「人間の最期をどのように見送るか」を語り合った。 

 

悲しみを徐々に緩和する

【横田】「死を受け入れる」というのは、本人だけの話ではありません。残された周囲の人々にとっても、死は一大事です。そこで見直されるべきなのは「儀式の大切さ」です。

たとえば、お葬式を行なってご遺族から感謝されるのは「葬儀の過程をたどるうちに、しだいに心の整理がついていった」ということです。お通夜に始まって葬儀、初七日から四十九日の法要、納骨、百か日、お盆という一連の儀式を作法に基づいて行うなかで、家族の死という現実を少しずつ受け入れ、親しい人を失ったショックや悲しみが徐々に緩和されていく。

【片柳】キリスト教にも同様に、臨終の祈り、納棺の祈り、葬儀の祈りなど多くの儀礼があり、一つひとつを決められた方法に従って行います。ただし最近では、遺族の高齢化などの理由から、通夜を省略するなどの簡素化も見られます。

【横田】近年は社会の変化や経済的な理由から、家族葬が増えています。必ずしも悪いことではありませんし、やむをえない事情もあるのでしょうが、「故人と最後のお別れをしたい」と思うのは家族だけではない、ということは踏まえておくべきでしょう。

葬儀は、縁あってこの世で出会った人とのお別れの場でもあります。仏教は「縁」を大切にする宗教ですから、儀式というものを重視します。

【片柳】カトリックもまた、「儀式の宗教」であるといえます。ミサで唱える言葉や応答の仕方があらかじめ決まっており、儀礼を通じて会衆(参加者)が神とのつながりを回復していく。他方、プロテスタントでは儀礼を形式主義と見なし、牧師による説教を重視する傾向があります。

【横田】フランスの社会学者デュルケームの『自殺論』に、カトリックの信者が多い地域はプロテスタントの信者が多い地域よりも自殺率が低い、という記述がありました。

共に儀礼に参加することで心も安らぎ、個人の信仰も固くなるのではないでしょうか。ただ一人で神様との信仰の結びつきを維持しなければならない、というのは、かえって厳しいものがありますから。

【片柳】そういう部分はあるかもしれません。頭で理解するだけでなく、全身で感じることに意味があると思っています。ステンドグラスから射し込むの光の中で、パイプオルガンの音色に包まれ、皆と同じ言葉で祈ることによって、天国での交わりや、安らぎ、希望を「体感」できるのです。

 

「形」によって安らぎを得る

【横田】私は現在、花園大学の総長も務めていますが、東京大学を卒業した学長から「東大では一時期、卒業式がなかった」という話を聞きました。

1969年に学生たちが安田講堂を占拠し、機動隊と衝突した「東大安田講堂事件」以来、70年代から80年代までの約20年間、安田講堂で卒業式が行われませんでした。新型コロナウイルスの感染拡大時にも、同じく卒業式が中止されました。

しかしながら現在、式典が復活しているのは、やはり儀式というものを求める私たちの心情ではないでしょうか。証書授与のセレモニーがなくても卒業はできますが、それでは物足りない。人生の節目における儀式は、私たちの心やアイデンティティに少なからぬ影響を与えているように感じます。

【片柳】儀式のような「形」によって安らぎを得るというのは、カトリックのみならず、宗教の本質といえるでしょう。形といえば私は仏像も大好きで、穏やかな表情を見ているだけで心が落ち着くんです。

たしかに聖書の言葉を厳密に読んだ場合、何かの像を作ることは禁じ、葬儀も不要という考え方もありえます。人間は亡くなったのち、天国か地獄に行く。天国で祝福された人のために祈る必要はもはやないし、地獄へ行った人のために祈るのは手遅れと考えることもできるのです(笑)。

【横田】面白いですね。じつは仏教でも、お釈迦様の教えを原理的に突き詰めると「故人にお経を上げるのは無意味である」ということになります。仏教の基本は因果応報で、悪いことをすれば己に返ってくるし、よいことをすれば報いがある。お経を上げることは本人の功徳(くどく)にしかならず、他人を清めることはできない。

ところが大乗仏教になると、自分たちが積んだ善行を他人に振り向けることができる、という解釈が生まれます。この「回向(えこう)」という仕組みによって、自他の区別なくお経を唱えられるようになったのです。

ちなみに、僧の立場から葬儀の重要性を語ると「坊主丸儲け」「葬式仏教」の宣伝ではないか、という批判を受けます。しかし私たちが施しのすべてをいただくわけではないし、そもそもお経を上げることは功徳を積む(振り向ける)ことなので、まさしくご自身のお気持ちしだいです。

 

「看取り」の大切さ

【片柳】他方で最初に話されたように、葬儀は残された人のためでもあります。通夜の省略など儀式をどこまで簡略化するかは、ひとえにご遺族の気持ち次第でしょう。たとえば若くして亡くなられた方の場合、別れがつらく、ご遺族が亡き骸に夜通し寄り添っている。そんなときは当然、私も傍にいて、できる限りの祈りをすることになります。

【横田】先日、カトリック聖心会のシスター(修道女)鈴木秀子先生とお会いした際に、「看取り」の大切さを強調されていました。

【片柳】カトリックには7つの秘跡(神の愛の目に見えるしるし)の1つとして、「病者の塗油」という儀式があります。死を迎えた人のもとへ神父が赴き、額と両手に油を塗る。「告解」を行なって罪を許し、天国へ入れるように祈る。

映画『ゴッドファーザー PARTⅢ』に、マフィアの親分が良心の呵責に耐え兼ね、神父に過去の殺人を告白するシーンが描かれていますが、あれが「告解」です。一般に「懺悔」と呼ばれていますが。

【横田】臨終の儀式のおかげで、死にゆく人が安心を得られるわけですね。

【片柳】事実、祈ってもらって安心するからでしょうか、寿命が2、3ヶ月延びるようなこともあるんです(笑)。

 

一緒に苦しみを味わう

【横田】われわれ仏教でも、亡くなる方や家族のグリーフケア(悲しみを支えるケア)に力を入れはじめています。キリスト教のように死に寄り添う活動をめざしているものの、まだまだ道半ばにも到りません。

【片柳】たしかにキリスト教の場合、昔から「チャプレン」という病院の聖堂付きの聖職者が入院患者の心のケアを行う伝統がありますからね。

キリスト教における「救い」とは、奇跡的な治癒などによって、人々を「助けること」ではありません。人々と「一緒に苦しみを味わうこと」にあるのです。

これを実践したのがイエスであり、マザー・テレサです。彼女は世界中どこでも、苦しむ人がいればその人のところに行き、共に苦しみを担うことをモットーとしていました。誰かが自分の苦しみを理解し、一緒に受け止めてくれることで、その人の心が救われるということですね。

2011年、東日本大震災当時のローマ教皇ベネディクト16世は、被災した少女から「同じ年頃の子どもがたくさん亡くなりました。なぜこんなに悲しいことになるのか、教えてください」という問いを受けた際、しばらく沈黙した後、目に涙を浮かべながら次のように答えました。

「我々は答えを持っていません。しかし、キリストがその人たちのそばにいて、一緒に苦しんでいてくださったことだけは確かだと信じています」

【横田】素晴らしい姿勢ですね。謙虚にわからないと語り、言葉ではなく態度で自らの答えを示している。

【片柳】また2022年、ウクライナの人々の苦しみに言及したローマ教皇フランシスコは、話の途中で声を詰まらせ、目に涙を浮かべて身を震わせました。まさに、この涙こそが「答え」なのです。真摯な態度と涙こそ、相手への共感、相手の苦しみを一緒に担っていることの何よりの証になるのです。

 

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