不治の病や余命を宣告されたとき、人生は一瞬で変貌を遂げる。私たちは死を受け入れることができるのか。宗教は苦しみを取り除けるのか。親しい者を失った人は悲しみを乗り越えられるのか。禅僧と神父が、宗教者に求められる最大の使命について語り合う。
【横田】先日、長野県の茅野市にある諏訪中央病院から「死」について話してほしい、とのお招きがありました。著名な鎌田實先生が名誉院長を務める病院で、若い医師いわく「患者さんがまだ元気なうちから、死をどのように受け入れるかを学び、考えてほしい」というのがそもそもの依頼の理由でした。
患者さんやご家族の多くにとって、死は「触れてはならないもの」になっています。たとえば病が重く、死期が近い男性のご家族に対し、お父さんの最期をどこでどのように迎えるか、考えてもらうように医師が伝えたところ、娘さんが「お父さんがまだ生きているのに、何てことを!」と激昂されたそうです。
【片柳】お医者さんと患者さん側の死をめぐる意識のズレは、しばしば見られますね。
【横田】われわれお坊さんが袈裟を着て病院を訪れるだけで、葬式を連想させる、といって疎まれることも少なくありません。
【片柳】死から目をそむけようとする態度は、多くの人に見られます。しかし死は必ずやってくるわけで、そのときになって自分が不治の病や余命を宣告されてから、あわてて心の拠り所を探し始める。結果として、素性のわからないあやしげな宗教とか、詐欺のような商法に引っ掛かってしまうこともあります。平素から死というものを考え、やがて死ぬにしても希望をもって生きられるような考え方、ストーリーを探しておいたほうがいいのではないでしょうか。
【横田】たとえば「延命治療をどこまで続けるか」という点について、ご家族に判断を求めても「先生、何とかお願いします」といわれるばかりで、医師の側も困ってしまうそうです。
【片柳】お医者さんは患者さんに症状や余命を伝えることはできても、患者さんの「なぜ自分が死ななければならないのか」という問いに答えることはできない。宗教者に「両者のギャップを埋めてほしい」という社会の要請があるのではないでしょうか。
【片柳】キリスト教を信じる人々にとって「死」とは、端的にいえば「神から与えられた使命を人間がこの世で果たし終えた状態」にほかなりません。「お前は十分によくやった。わたしのところへ戻ってきなさい」ということで天国に召され、先に亡くなった人々と共に永遠に神と結ばれる。各人が全力を尽くして走り切ったからこそ与えられる、祝福のようなものなのです。死は終わりではなくむしろ人間のゴール、人生の完成といってもいいでしょう。
【横田】さらに興味深いのはキリスト教の場合、天命を十分に全うした人だけでなく、事故や病気で命を早く落とした者もまた同様に祝福される、ということですね。
【片柳】はい。この世の寿命を迎える時期や理由については、われわれが理解できないだけで、神の目から見ればあらゆる人生に意味がある。たとえ短い人生であったとしても、十分に役割を果たしたと見るわけです。
【横田】それは大事なところですね。
【片柳】ただ、それだけでは納得できないでしょう。若い方が亡くなった際、残された方々に葬儀の場で伝えるのは、命が失われてしまったことより、たとえ短いあいだでも私たちと一緒にいてくれたことに感謝しよう、ということです。一緒に生きられたことが、一生の宝なんだということですね。宗教者に与えられた使命の一つは、残された人たちが親しい人の死を受け入れられるような考え方やストーリーを提供することにある、と私は考えています。
更新:12月04日 00:05