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【天才の光と影 異端のノーベル賞受賞者たち】第21回 キャリー・マリス(1993年ノーベル化学賞)

2023年10月05日 公開

高橋昌一郎(國學院大學教授)

 

「PCR法」の確立とノーベル賞受賞

カンザスにいた当時のある日、薬物依存の傾向があるマリスは、睡眠効果のある抗ヒスタミン剤を飲んでいた。そして、笑気ガスのタンクのバルブを開いてプラスチック製のチューブを口に咥えたまま、眠ってしまった。目が覚めると、彼の口と舌は笑気ガスの凍傷で白く膨れ上がっていた。

彼は、その治療のために1カ月入院しなければならなかったが、そこで彼の世話をした看護師がシンシア・ギブソンだった。マリスは、彼女と3度目の結婚をして、2人の息子クリストファーとジェレミーを儲けたが、1981年に離婚している。

1979年9月、マリスは、ノーベル物理学賞を受賞した分子生物学者ドナルド・グレーザーが設立したバイオテクノロジー企業シータス社に入社した。

マリスは、シータス社で、さまざまなDNAの断片を合成する作業を行なった。当時の彼は、会社の同僚である「美人」ジェニファー・ガーネットと同棲し、週末にはメンダシーノの森の中にある山荘で過ごすのが常だった。

1983年5月、金曜日の夜にマリスは、ジェニファーを助手席に乗せて、愛車のホンダ・シビックを運転していた。その運転中に突然、彼の頭の中に「ポリメラーゼ連鎖反応(PCR: Polymerase Chain Reaction)」の方式が浮かんだという。

彼は慌てて車を止めて、その方程式を鉛筆で封筒に書いた。あまりに焦ったため、鉛筆の芯が折れてしまったので、寝ているジェニファーのボールペンを探し出して書き続けたという。

それまでの方法では、DNAは細菌によって1ステップずつシャーレで増殖させるため、非常に長い時間が掛かった。当時ジェネティック社がヒトの神経因子のクローニングに成功して話題になったが、それには何カ月もの時間を要していた。

ところが、マリスの発見した「PCR法」は「DNAポリメラーゼ」と呼ばれる酵素を巧妙に用いて、第1サイクルで2倍、第2サイクルで4倍と幾何級数的にDNAを増殖させるため、10回のサイクルで2の10乗の1024倍、20回のサイクルで100万倍以上、30回のサイクルを繰り返せばDNAを10億倍にも増殖できる。

この1サイクルに要する時間は2分程度なので、1時間もあれば1個のDNAを10億個に増殖できるわけである!

この「PCR法」は、今では新型コロナウイルスの検査で世界中に知られるようになったが、それ以上に、分子生物学に計り知れない飛躍的な進歩をもたらした。

たとえば「PCR法」によって、犯罪現場に残された非常に僅かな血痕や毛髪や皮膚などからDNAを増幅させて犯人を割り出すことができる。あるいは、化石の遺骨に残された微細なDNAを増幅させることによって、人類の起源を探ることもできる。その他にも、応用の期待される分野は非常に幅広い。

ここでおもしろいのは、マリスが「PCR法」の論文を『ネイチャー』誌に送付したところ、掲載が「拒否(reject)」されたことである。

のちにマリスは、彼の突飛な宇宙論の論文を掲載した『ネイチャー』が、なぜ彼のノーベル賞級の論文を拒否したのか謎だと皮肉を述べているが、結果的に彼の論文は『Methods in Enzymology(酵素学の方法)』という非常に専門的な雑誌に掲載された。

要するに、マリスが「PCR法」を発表した当時、『ネイチャー』の査読者をはじめ、多くの科学者やマリスの会社の同僚は、その応用可能性がどれほど幅広いか、その莫大で深遠な価値に気づかなかったのである。

マリスは「PCR法」の発見によって、シータス社から1万ドル(当時の換算レートで約100万円)のボーナスを受け取っただけだった。

ところが、その後のシータス社は「PCR法」の特許で莫大な利益を得て、さらにその特許を1991年にスイスの製薬会社ロシュ社に売却した。その売却費は、3億ドル(当時の換算レートで約300億円)だった。つまり、もしマリスがシータス社を辞めて自分で特許申請していたら、彼は億万長者になっていたわけである!

1986年、シータス社を退職したマリスは、「DNAプロファイリング」の専門家としていくつかの会社のコンサルタントを務め、SF小説を書いたり、新たなビジネスを起こしたりした。

1992年には、マリリン・モンローやエルビス・プレスリーといった亡き有名人のDNAを増幅させて、それらのDNAを内部に含む宝飾品を販売する会社を設立している。

1993年、マリスは「分子生物化学における手法開発への貢献」により、ノーベル化学賞を受賞した。

ストックホルムの授賞式に出席したマリスは、晩餐会でスウェーデン国王夫妻に軽口を叩いている。当時、国王夫妻の長女であるヴィクトリア王太子は高校生で、同じサークルの男子学生とのスキャンダルがスクープされたばかりだった。

マリスは国王夫妻に向かって「何といっても16歳の女子学生ですから、少しだけ我慢していたら、すぐに忘れてしまいますよ。逆にこの経験を活かして、立派な大人へと成長されるに違いありません」といった。

彼は続けて「私には息子がおりまして、王女の年齢にちょうどよい年頃です。この息子を王女の婿として差し上げましょう。その代わりに、私に国王の領土の3分の1を頂戴できればありがたいのですが......」といったという。

1993年度に「日本国際賞」を受賞したマリスは、日本を訪れている。授賞式で、当時の天皇皇后両陛下に挨拶した際には、美智子妃に「sweety(素敵な人、可愛い子ちゃん)」と声を掛けて周囲を慌てさせた。

だが、美智子妃は驚く様子もなく平然と微笑み、その後に「とても楽しい会話を交わすことができた」とマリスは述べている。

 

『心の広場を裸で踊る』

ノーベル賞を受賞して有名人となったマリスは、自ら会社を起業して、血液中にウイルスや細菌が混在していないかを短時間で調査する方法や、病原体に対する生物の免疫機能を他の生物に応用する方法の発見に取り組んだ。

1995年には、悪名高い「O.J.シンプソン裁判」で、ロサンジェルス警察の血液保存方法やDNA鑑定方法にさまざまな不備があったことを証言した。

ノーベル賞受賞者のマリスが「ロサンジェルス警察科学捜査班のDNA鑑定は、車両ナンバーの2桁を見ただけで4桁の犯行車両を特定するに等しいほどズサンだ」と証言したことは、シンプソンを「無罪」に導いた陪審判決に大きなインパクトを与えたといわれている。

1998年、マリスは自伝『Dancing Naked in the Mind Field(心の広場を裸で踊る)』(福岡伸一訳『マリス博士の奇想天外な人生』ハヤカワ文庫NF)を上梓した。

マリスは、エイズの原因は「ヒト免疫不全ウイルス(HIV)」ではないという奇説を主張している。また、フロンガスによるオゾン層の破壊のデータを否定し、「地球温暖化」そのものを立証するデータやエビデンスも「人為的」だと異議を申し立てている。

その他、彼の自伝には、LSDや他の薬物に溺れて何が起こったか、友人と一緒にLSDを使用した際に互いの目を見るだけでテレパシーできたという話、「占星術」を立派な学問として擁護する姿勢、山荘で「光るアライグマ(実はエイリアンだったという)」と会話を交わしたエピソードが出てくる。

この自伝を読むと、彼自身の脳内で、どこまでが現実で、どこからが薬物の影響によるものなのか、彼自身にも識別できていないように映る。

もしかすると、マリスは「現実と夢」の境界など曖昧なものだという世界観を表明しているのかもしれない。だが、本書の発行によって、マリスは決定的に「エキセントリックで傲慢で奇怪な思想の持ち主」として評価されるようになった。

マリスを強く批判するヨーロッパ臨床医学会会長ジョン・マーティンは、『ネイチャー』の取材に対して、次のように答えている。

「マリス博士の講演において、彼が映したスライドは、彼自身が撮影したという女性のヌード写真ばかりでした。これらを彼は芸術作品だと述べています。

次に彼は、現代の科学研究機関では、研究資金を獲得するために、多くのウソのデータやエビデンスの捏造が横行していると非難しました。とくに、彼が真面目なエイズ研究者を名指しにして誹謗中傷したことは、許容できません。ヨーロッパ臨床医学会は、今後、2度とマリス博士を講演に招待しません」

晩年のマリスは、4度目の妻ナンシー・コズグローブと共にカリフォルニアのニューポート・ビーチで暮らした。2019年8月7日、74歳のマリスは、肺炎により逝去した。

 

著者紹介

高橋昌一郎(たかはし・しょういちろう)

國學院大學教授

1959年生まれ。ミシガン大学大学院哲学研究科修了。現在、國學院大學文学部教授。専門は論理学、科学哲学。主要著書に『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』(以上、講談社現代新書)、『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』『新書100冊』(以上、光文社新書)、『愛の論理学』(角川新書)、『東大生の論理』(ちくま新書)、『小林秀雄の哲学』(朝日新書)、『哲学ディベート』(NHKブックス)、『ノイマン・ゲーデル・チューリング』(筑摩選書)、『科学哲学のすすめ』(丸善)など多数。情報文化研究所所長、Japan Skeptics副会長。

X(旧 Twitter):https://twitter.com/ShoichiroT

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