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【天才の光と影 異端のノーベル賞受賞者たち】第21回 キャリー・マリス(1993年ノーベル化学賞)

2023年10月05日 公開

高橋昌一郎(國學院大學教授)

 

ジョージア工科大学

1962年9月、マリスはジョージア州アトランタのジョージア工科大学に進学した。ジョージア工科大学といえば、東部のマサチューセッツ工科大学と西部のカリフォルニア工科大学に並び、「南部のMIT」と呼ばれることもある名門工科大学である。南北戦争後の1885年、ジョージア州が南部の工業力を強化すべきだという理想に基づき設置した州立大学である。

マリスは、高校時代から交際していたリチャーズ・ヘイリーと結婚し、その直後に長女ルイーズが生まれた。その後の4年間の大学時代、彼は専攻した化学を猛勉強し、ルイーズのおむつを替えて面倒を見ながら、学費と家族の生活費を稼ぐ必要が生じた。

というわけで、彼は大学の夏期休暇に化学試薬を取り引きする会社「コロンビア・オーガニック社」で働くことになった。当時の化学試薬は、化学的にはまったく同じ内容であっても、業種や用途によって違う名前が付いていた。

ちなみに、現在の病院の医師が処方する薬も、まったく同一成分であっても先発・後発によって別名が付いているので混乱することがあるが、これが薬品業界の慣例であるらしい。

マリスの仕事は、会社の注文リストと世界各国の薬品カタログを調べて、最も安く発注できる同一内容の試薬を発見することだった。そこでマリスは、会社が大きな損失を出していることに気づいた。

コロンビア・オーガニック社は、スイスの大手薬品メーカー・フルカ社から化学薬品Xを購入していたが、その価格として1gあたり100ドルを支払っている。

ところが、コロンビア・オーガニック社の倉庫には、実はXとまったく同じ化学式だが別名の化学薬品Yが何kgも保管されていたのである。しかも、コロンビア・オーガニック社は、この化学薬品Yをイリノイ州の薬品会社に24ドルで卸していた!

つまり、間に入ったイリノイ州の薬品会社は、コロンビア・オーガニック社から化学薬品Yを1g24ドルで買い取って利益を上乗せしてフルカ社に売り、フルカ社はそれに再び利益を上乗せしてコロンビア・オーガニック社に化学薬品Xとして1g100ドルで売っていたわけである。

しかも、マリスは、この取り引きを追跡調査した結果、コロンビア・オーガニック社が何年間も継続して損失を出していたことを突き止めた。

コロンビア・オーガニック社の社長マックス・ガーゲルは激怒して、フルカ社の社長をノースカロライナ州コロンビアの本社にまで呼びつけた。ただし、この事件は公表されず、薬品業界では比較的「よくある話」ということで、社長同士の話し合いで内々に処理されたという。

いずれにしても、社長は、大学生のアルバイトであるにもかかわらず、ここまで薬品の流れを突き止めたマリスを高く評価して、彼を夕食に招待した。この時点から、マリスはたんなるアルバイトではなく、社長ガーゲルの「友人に昇格した」と述べている。

次にマリスは、当時製造が中止されて品薄になっていた薬品を作ることにした。彼のガレージは猛烈な異臭を放ち、周囲から多くの苦情が出たが、彼は何度も苦労を重ねて独自の「純化法」を見出し、最終的に「ニトロソベンゼン」の結晶を抽出することに成功した。

当時、どこにも出回っていなかった「ニトロソベンゼン」は、1g当たり6ドルの大金になった。マリスが結晶を見せにいくと、そこまでの専門的な成果を上げるとは夢にも思わなかった社長は、大きな衝撃を受けた。彼は、マリスを「自分の養子にしてもいい」とまでいって、ボーナスを支払ったという。

 

カリフォルニア大学バークレー校大学院

ジョー・ニーランズ
ジョー・ニーランズ 1958年

1966年9月、ジョージア工科大学を優秀な成績で卒業したマリスは、カリフォルニア大学バークレー校大学院に進学して生化学を専攻することになった。彼が博士論文の指導教官に選んだのは、ジョー・ニーランズ教授である。

ニーランズは、酵素化学の専門家で、とくに微生物の鉄分供給を解明したことで知られる。彼の研究室では「皆が自由に研究テーマを選び、楽しみながら研究していた」という。

のちにマリスは、「おそらくニーランズ教授は私のことを見て、この男は科学の世界では大成しないだろうと思っていたに違いない。というのは、私があまりにも多くのことに興味をもっていたからだ。その中でも最たる対象は、女の子たちだった」と述べている。

大学院時代、彼は最初の妻と離婚し、海岸でサーフィンを覚え、人類学や社会学など幅広い講義に出没し、いろいろな楽器を演奏し、多くの女性と交際した。そこで2度目の結婚をしたが、その相手とは1970年代後半に離婚したことがわかっている。

「彼女は医学部の学生だった。結果的に彼女は私を捨てて出ていった。よくある話だし、そのこと自体は何も気にしていない。しかし、当時はその事態に慣れるまでに3カ月も掛かった」とだけ述べている。

1968年、24歳のマリスは、宇宙物理学に異常なほどの興味を抱き、その分野の論文を乱読した。当時のアメリカの大学にはマリファナやLSDのような薬物が蔓延し、マリスはそれらによって「大きな気分」になった。

そこで彼は「宇宙に存在する物質の半分は時間を反転している」という大胆な仮説を立てて、宇宙の創生から終末までを論じる論文を書き上げた。マリスが冗談半分でこの論文「時間反転の宇宙論的考察」を『ネイチャー』誌に送ってみると、驚いたことに、この論文は受理されて掲載されたのである!

1972年8月、28歳のマリスはカリフォルニア大学バークレー校大学院より生化学の博士号を取得した。彼の博士論文は、ニーランズ教授の指導の下で微生物の「シデロフォア」を扱った研究に関する成果だった。

一般に、鉄分は体内で生成できないので、生物は食物から補給しているが、微生物は周囲から鉄分を取り込まなければならない。そのため、シデロフォアという物質を放出して鉄分を囲み、それを再び体内に吸収する。マリスの論文は、その構造を明らかにする内容だった。

その後、マリスは、1973年9月から1977年8月までカンザス大学医学部小児循環器科、1977年9月から1979年8月まではカリフォルニア大学サンフランシスコ校薬学部薬化学科で研究員を務めた。博士号取得後、いわゆる「ポスドク研究員」を6年間務めたわけだが、その間にアカデミックなポストは提供されなかったようだ。

ニーランズ教授は、マリスのことを「まったく倫理観に欠けて、誰もが御し難い自由奔放な精神の持ち主」と評していたが、マリスは、自分が女性とLSDが大好きであることを隠そうとしなかった。おそらく、そのような評判が原因で、彼には大学のポストが提供されなかったのではないか。

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著者紹介

高橋昌一郎(たかはし・しょういちろう)

國學院大學教授

1959年生まれ。ミシガン大学大学院哲学研究科修了。現在、國學院大學文学部教授。専門は論理学、科学哲学。主要著書に『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』(以上、講談社現代新書)、『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』『新書100冊』(以上、光文社新書)、『愛の論理学』(角川新書)、『東大生の論理』(ちくま新書)、『小林秀雄の哲学』(朝日新書)、『哲学ディベート』(NHKブックス)、『ノイマン・ゲーデル・チューリング』(筑摩選書)、『科学哲学のすすめ』(丸善)など多数。情報文化研究所所長、Japan Skeptics副会長。

X(旧 Twitter):https://twitter.com/ShoichiroT

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