要するに、民主政治と自由は、矛盾する面があるということです。だから、トクヴィルは、アメリカの民主政治を観察して、こう述べました。「一般に、アメリカにおけるほどに精神の独立と真の言論の自由との少ない国は他にはないのである」。
当時のアメリカの方が、伝統的な階級社会であるヨーロッパの国々よりも「精神の独立と真の言論の自由」が少ないというのは、意外に聞こえるかもしれません。
確かに、君主による専制政治も、もちろん自由を侵害するものです。ただし、その手段はあくまで物理的な暴力によるものに過ぎず、人々の精神にまでは踏み込んでくるものではありませんでした。
ところが、民主政治における「多数者の専制」は、物理的な暴力を行使するのではなく、少数派を精神的に追い込むことで、黙らせるのです。これは、ある意味、王政の専制よりも残酷かもしれません。
これは、19世紀前半のアメリカではなく、21世紀の日本で起きたことを描いているかのようです。例えば、2005年、当時の小泉純一郎政権は、郵政民営化の是非を問う選挙を実施しました。
小泉首相は、郵政民営化に反対する国会議員たちを「抵抗勢力」と呼び、世論を煽りました。国民は、郵政民営化の意味を理解することもないまま、雪崩を打って小泉氏を支持しました。
抵抗勢力のレッテルを貼られた議員たちは支持者を失って次々と落選し、「ついには屈服して、本当のことをいったことを後悔しているかのように沈黙に陥って」しまったのです。
より最近の例を挙げるならば、芸能人やスポーツ選手などの著名人の発言に対して、SNSを通じて、非難や誹謗中傷が殺到することがあります。いわゆる「炎上」です。
SNSが炎上すると、著名人は発言を撤回して謝罪するだけではなく、その後、SNSによる発信を止めてしまいます。つまり、言論の自由が失われるのです。この「炎上」という暴力的な現象も、「多数者の専制」の一種と言えるでしょう。
ここで重要なのは、いくら言論の自由が形式的には保障されていても、多数派から無視されたり、いやがらせを受けたりし続ければ、精神的に参って、沈黙に陥ってしまうので、実質的には、言論の自由を奪われたに等しいということです。
「多数者の専制」が行使する絶対的な権力とは、言い換えれば、意見の多様性を許さず、大勢に順応することを強いる社会の同調圧力のことです。
そういう同調圧力は、しばしば、日本社会に特有のものであるかのように言われます。これに対して、アメリカ社会は、日本と違って、多様な意見を尊重する社会だと信じられています。
ところが、トクヴィルは、19世紀のアメリカ社会を観察して、その異様な画一性と同調圧力の強さを指摘しているのです。
トクヴィルは、「アメリカでは、人々の精神はすべて同じモデルに基づいてつくられており、また、そうであればこそ、それらの精神は正確に同じ道を辿っているといえよう」と書いています。
実は、今日でも、アメリカ社会には、強烈な同調圧力があることが指摘されています。アメリカには、確かに多くの移民が流入し、文化的な多様性を生み出しているように見えます。
しかし、実際には、アメリカに渡った移民の2世や3世は、そのルーツの文化や言語を忘れ、アメリカ文化に適応し、英語を話す傾向が強いのです。
アメリカ社会は「人種のるつぼ」と言われますが、まさに「るつぼ」とあるように、さまざまな民族の文化を溶かして、アメリカ文化という鋳型に流し込むのです。
また、アメリカ文化の特徴は、マクドナルドに代表されるように、徹底した標準化・画一化にあります。ハインツの缶詰、T型フォードからスマートフォンに至るまで、アメリカ人は、製品やサービスを徹底的に標準化・画一化するのを得意とします。
アメリカ社会は多様性を尊重するなどというのは、神話に過ぎません。実際には、アメリカ社会は、同調圧力が極めて強い社会なのです。ヨーロッパ人のアメリカに対するジョークにも、次のようなものがあります。
「アメリカは人々が選択の自由を有することを望んでいる。ただし、それはアメリカ的なやり方を選択する場合に限ってだが」。
さて、このアメリカ社会の同調圧力は、トクヴィルによれば、民主政治から発生するものだということになります。だとすると、日本社会に見られる同調圧力もまた、日本の文化的特殊性ゆえではなく、民主政治のせいである可能性が高いでしょう。
日本が、アメリカの民主政治を見習うほどに、社会の同調圧力は高まり、自由が損なわれていくというわけです。
更新:12月04日 00:05