2021年04月22日 公開
2024年12月16日 更新
GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による日本の「経済民主化」は、増税をはじめ今日まで続く緊縮財政策の起源の一つ、すなわち「経済弱体化」だった。日本を脆弱化、衰退化させる経済思想を、占領期のGHQとの関係から再考察する。
※本稿は、田中秀臣『脱GHQ史観の経済学』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
GHQの置き土産といえる日本弱体化≒緊縮主義は、占領終了後も日本の経済政策を拘束し続けてきた。
日本国の骨格である憲法のあり方、安全保障の取り組み、現在のような新型コロナ危機での政策対応でも、GHQの影=緊縮主義の影を見出すことはたやすい。
その意味では、GHQはいまだに日本の経済政策を「占領」しているのだ。
今までの「教科書」的な占領期の経済政策のイメージは次のようなものだろう。
戦争で廃墟になった日本経済は、GHQによる「経済民主化」――財閥解体、労働の民主化、農地改革など――で自由経済の余地を拡大し、そして傾斜生産方式により経済復興の足掛かりを得た。
また高いインフレが国民の生活を圧迫していたが、それはドッジ・ラインというデフレ政策によって抑制され、やがて朝鮮戦争の特需によって日本は高度成長に移行していった、というものだ。
だが、この「教科書」的図式をそのまま鵜吞みにすることはできない。特に最近論点になっているのが、「傾斜生産方式」の評価だ。吉田茂首相の「ブレーン」といわれた有澤廣巳が、この傾斜生産方式の提案者として有名だ。
有澤は1946年12月に、戦後の高いインフレーションはモノの不足にあるので、それを「計画と組織」の主導によってまず鉄鋼・石炭の部門に集中的に資源を投入して生産を増やしていこうと提唱した。
この傾斜生産方式が「成功」して、占領期の経済は一応の回復をみたとされてきた。
そのため政府主導の「計画と組織」の成功神話が誕生し、以後、今日に至るまで日本経済の復興には、政府や優れた官僚たちの貢献が不可欠であったとされてきた。
なお、傾斜生産方式は有澤の名前と結びつけられているが、最新の経済思想史研究では、むしろ当時蔵相だった石橋湛山の貢献の方が大きいと再評価されている。
不幸なのは、石橋はこの傾斜生産方式が本格的に発動する前に、GHQによって公職追放されてしまった。
更新:12月24日 00:05