2021年12月09日 公開
2023年02月01日 更新
なぜ、松谷はこのような「終戦処理案」を作成したのだろうか。『大東亜戦争収拾の真相』によれば、松谷は、参謀本部第20班および杉山陸軍大臣秘書官時代の協力者だった企画院勅任調査官の毛里英於(もうりひでおと)、慶應義塾大学教授の武村忠雄はじめ、各方面の識者数人を極秘裏に集め、終戦後の国策を討議し、また、外務省欧米局米国課の都留重人、太平洋問題調査会の平野義太郎とは個別に懇談したという。
毛里、平野はいわゆる革新官僚だった。とくに平野はフランクフルト大学に留学してマルクス主義を研究した講座派のマルクス主義法学者で、治安維持法で検挙されると転向し、右翼の論客となったが、戦後は再び日ソ友好などで活動した。
また都留重人(経済学者・第6代一橋大学学長)は、治安維持法で検挙され、第八高等学校を除名後、ハーバード大学に留学、同大大学院で博士号を取得したが、戦後、米国留学時代に共産主義者であったことを告白している。
都留は1945年3月から5月まで外交クーリエ(連絡係)としてモスクワを訪問しており、松谷が「終戦処理案」を作成した4月には日本にはいなかった。しかし、松谷とは1943年ごろから面会しており、「終戦処理案」でも何らかの示唆を与えた可能性もある。ソ連仲介和平工作が本格化する時期に都留がモスクワを訪問していたことも謎である。ソ連幹部と面会して何らかの交渉を行なっていたのではないかと推測される。
種村も都留同様に、クーリエとしてモスクワを訪問した過去があった。1939年12月から参謀本部戦争指導班に所属し、1944年7月から戦争指導班長を務めた種村がモスクワに出張していたのは、同年2月5日から3月30日までであった。
帰国した種村は同年4月4日、木戸内相を訪ね、ソ連情勢を説いている。この日の『木戸日記』には、「種村佐孝大佐来庁、武官長と共に最近のソ連の実情を聴く。大いに獲る所ありたり」と記されている。前述したように、木戸は共産主義への甘い幻想を語っているが、それは種村による影響だったのだろう。種村はポツダム宣言が出されたあと、第17方面軍参謀として朝鮮に渡って終戦を迎えたが、1950年までシベリアに抑留された。
種村の「素性」が判明するのは、帰国後のことである。1954年、在日ソ連大使館二等書記官だったユーリー・ラストヴォロフ中佐がアメリカに亡命するという事件が起きる(ラストヴォロフ事件)。
亡命先のアメリカでラストヴォロフは、「(シベリア抑留中に)11名の厳格にチェックされた共産主義者の軍人を教育した」と証言したが、志位正二、朝枝繁春(以上、2人はソ連のエージェントだったことを認め、警視庁に自首した)、瀬島龍三などのほかに、種村の名前を挙げている。
種村をはじめ、松谷ら陸軍の親ソ派が練った終戦構想とは、国内では一億玉砕、本土決戦を唱えて国民統制を強化しながら、ソ連に仲介和平交渉を通じて接近し、敗戦後、日本に共産主義国家を建設するというものだった。
そのうえで、日本、ソ連、中国(共産政権)で共産主義同盟を結び、アジアを帝国主義から解放するという革命工作だった可能性が高いのである。当時の日本は、帝国主義国同士を戦わせ、敗戦の混乱を利用して共産主義国家に転換させるというレーニンが唱えた、まさしく「敗戦革命」の瀬戸際に立たされていたといえる。
本稿で挙げたベルン発の中国武官の電報は、コミンテルンの工作が日本の中枢にまで浸透していたことを裏づけているといえよう。
更新:11月22日 00:05