Voice » 社会・教育 » GHQを操った“ソ連のスパイ”? 「日本の共産化」を企てたハーバート・ノーマン

GHQを操った“ソ連のスパイ”? 「日本の共産化」を企てたハーバート・ノーマン

2021年09月16日 公開
2023年02月01日 更新

岡部伸(産経新聞社論説委員/前ロンドン支局長)

岡部伸

GHQの占領政策に深く関わったハーバート・ノーマンというカナダ人がいた。彼は、天皇制の廃止を目論み、日本人に自虐史観を植えつけ、近衛文麿をA級戦犯に仕立て上げたという。そして東西冷戦の状況下で、彼にソ連のスパイ疑惑が浮上する――彼は一貫して否認したが、果たしてその真相はどうだったのだろうか?

※本稿は、岡部伸著『第二次大戦、諜報戦秘史』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。

 

謎の自殺を遂げたハーバート・ノーマン

東京・赤坂にある在日カナダ大使館の地下二階に、「E・H・ノーマン図書館」と名づけられた大使館付属の図書館がある。大使館のホームページによると、「2001年5月、カナダ大使館新庁舎開館10周年にあたり、生涯を通じてカナダと日本の人々の相互理解と友好促進に力を尽くしたカナダ人歴史学者・外交官、E・ハーバート・ノーマン(1909〜1957)を記念して命名され」たとのことだ。

だが後述するように、ノーマンは「カナダと日本の人々の相互理解と友好促進に力を尽くした」と単純には評価できない「経歴」の持ち主である。

ノーマンは、カナダ人宣教師の息子として長野県軽井沢に生まれ、日本で育った。カナダのトロント大学、英ケンブリッジ大学を経て、一時カナダに帰国。その後、米ハーバード大学大学院に入学し、のちに駐日アメリカ大使に就任するエドウィン・ライシャワー教授の下で日本史を学んでいる。

同大学院を修了してカナダ外務省に入省すると、外交官として再来日したが、太平洋戦争が始まると、交換船でカナダに帰国。日本の敗戦後、再び来日し、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領政策に深く関わった。日本語が堪能なノーマンは、ダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官の通訳を担当するなど、GHQの政策に強い影響力をもっていた。

しかし、東西冷戦下のアメリカにおいて、ノーマンに対し、共産主義者でソ連のスパイではないか、という疑惑がもち上がる。1905年、カナダ外務省は1946年8月から駐日カナダ代表部主席を務めていたノーマンを解任する。

カナダ外務省からカナダの国連代表に転じたノーマンに対し、米上院司法委員会国内治安小委員会が共産主義との関連を追及するのは、1951年8月からだ。

カナダ政府は、ノーマンは共産党員でもソ連のスパイでもないとして、ニュージーランド高等弁務官、エジプト大使に転進させたが、1957年4月、カイロで謎の自殺を遂げた。

 

ケンブリッジ在学中に共産主義に傾倒

果たして真相はどうだったのか。英国立公文書館には、MI5(英保安局)が監視、調査したノーマンの個人ファイル(KV2/3261)が「共産主義者と共感者」のカテゴリーのなかにある。

「カナダ人 コミュニスト(共産主義者あるいは共産党員)」と記され、ノーマンがMI5から要注意人物としてマークされていたことがわかる。

ノーマンが、英ケンブリッジ大学に入学したのは1933年10月のことだが、同年、ドイツではヒトラー政権が誕生しており、ファシズムの脅威が拡がるなかで、再び世界大戦が始まる危機感から、少なくない学生が共産主義に救済の道を見出していたころである。

同ファイルには、MI5のガイ・リデル副長官が王立カナダ騎馬警察のニコルソン長官に宛てた1951年10月9日付の書簡があり、次のように記されていた。

--------------------------
1935年4月、われわれはロンドンで開催された「インド学生秘密共産主義グループ」の会議の報告を入手した。同会議の主催者のB・F・ブラッドレーはイギリスの共産主義者として知られているが、会議で「ケンブリッジ・グループ」について話し、E・ノーマンというカナダ人の僚友と連絡を取って接していると話した。彼(ノーマン)は、植民地関係(植民地の学生を共産主義活動に勧誘する)活動の責任者で、四人のインド人学生と接触し、四人は来学期から活動に加わることが期待される(部分)
--------------------------

このように、MI5はノーマンがケンブリッジに在学中の1935年の時点で、彼を共産主義者と見なしていた。同ファイルによると、ノーマンはケンブリッジ在学中、共産主義に感化され、インド人学生の勧誘を行なっていたことになる。また、「大英帝国のレーニン」を自称し、スペイン内戦に参加して戦死した共産主義者、ジョン・コーンフォードはノーマンの友人だった。

こうした「赤い疑惑」に対して、カナダ外務省は1950年10月から数度、ノーマンを尋問するが、ノーマンは一貫して否定し続けた。その言葉を信用して、カナダ外務省は前述のように海外の大使館にノーマンを転出させた。その後、すでに記したように、ノーマンは1957年に赴任先のカイロで謎の自殺を遂げることになる。

次のページ
戦後日本を断罪した「ノーマン理論」 >

Voice 購入

2024年11月号

Voice 2024年11月号

発売日:2024年10月04日
価格(税込):880円

関連記事

編集部のおすすめ

「中国共産党の脅威」を生んでしまったアメリカ痛恨の”判断ミス”

江崎道朗(評論家)

GHQによる戦後日本の経済民主化は「経済弱体化」だった

田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授)
×