2021年07月07日 公開
2024年12月16日 更新
――東京五輪を開催するか否かの問題は、感染対策以外の複合的な要素まで踏まえて決断しなければいけないわけですね。
【橋下】専門家はそれぞれが自分の専門分野に基づいて意見を示します。五輪開催の是非のような答えの見えない問題は、感染症の専門家だけではなく、経済や政治などあらゆる観点を総合して、最終的には政治家が決断しなければなりません。
ここで重要になるのが、僕が前作『交渉力』のなかで述べた「要望の整理」です。つまりは、五輪の賛成派と反対派の双方の要望を分解して、擦り合わせていく手法です。
たとえば、賛成派にとって「開催」が譲れない条件であるならば、反対派が要求する感染対策は全面的に受け入れたうえで、場合によっては無観客の判断を厭うべきではない。
本当の交渉とは、「相手を打ち負かす」ことではありません。自分にとって絶対に譲れない条件を守るため、他の要望をできる限り削ることです。すなわち「妥協」です。
現在の菅政権の姿勢を見ていると、この「削り落とし」がまだ足りません。来日する五輪関係者を延期前の18万人から7万8000人まで削減したといいますが、「五輪貴族」と呼ばれるIOC委員らの数は減らせていない。
彼らがいなくたって、選手やスタッフが揃えば大会は開催できるじゃないですか。「五輪貴族」は来日させないくらいの決断ができなければ、国民の理解を得たかたちでの五輪開催は難しいでしょう。
――しっかりとしたプロセスを踏んで五輪の開催にこぎつけたとして、もしも期間中に国内の感染者が激増する事態になれば、「五輪はやはり開催すべきではなかった」というバッシングは起きるでしょう。
【橋下】政治家である以上は当然、政策の結果責任は問われます。国民は自分たちの意思を示す選挙というものを通じて、思う存分に菅政権に審判を下せばよい。
ただし強調しておきたいのは、プロセスをちゃんと踏まえたうえでの決定に対しては、結果論で感情的に批判すべきではないということです。とくに答えの見えない問題を相手にするときは、成功が100%保証されることなどありえません。
政治家はそれを承知のうえで、決断を下さなければいけない。その政策決定を建設的に評価・検証するのは重要ですが、決定権者を次々と袋叩きにしてしまうと、いつしか世の中のリーダーは重大な決断を避けるようになるでしょう。すでに日本では、そうした風潮が蔓延しつつあります。これは、じつに大きなマイナスですよ。
僕が携わる法律の世界には、絶対的な正解をめざす「実体的正義」と、適切なプロセスをとれば正当性があると見なす「手続的正義」という、二つの考え方が存在します。
とくに五輪開催のような難題では、首相個人のリーダーシップで実体的正義を実現するのは困難です。であるならば、菅政権は手続的正義を重視すべきで、国民はそれを全うしているかどうかを見極めるべきでしょう。
政治がプロセスをきちんと踏んだのであれば結果が悪くても仕方がないと納得するのも、民主国家の国民としての態度だと思います。
更新:12月22日 00:05