だが、厳シュンの対応はまったく違っていた。彼はそれを喜ぶところか、むしろ激昂して涙を流し、この任命を何度も固辞した。必死になって高い官位を手に入れようとするのは政治の世界の常であるが、彼の場合はむしろ、必死になってこれを断ろうとしているのである。
「人々は厳シュンのためにこの任命を喜んだが、厳シュンは幾度も固辞していった、『私は、山出しの書生で、軍事にはまったくうとい者です。才能もないのに重要なポストにつけば、必ずや咎めと後悔とをまねくことになるにちがいございません。』その固辞の言葉は激昂し、涙まで流すありさまであった」(同前)
厳シュンはいったいどうして、この破格な任命を固辞したのか。彼の理由は簡単だ。自分はただの一介の書生(すなわち知識人)、軍事のことにはまったく疎い。だから一万人の兵を率いて要所を守備する重責を担うことができない、ということである。
考えてみれば、まさしく厳シュンのいう通りだ。彼はそれまで学問を修める人生を送ってきて、軍事とはまったく縁のない人である。孫権の政権に入って騎都尉・従事中郎を歴任したが、その仕事はたんなる参謀役、兵を統率する経験はこの厳シュンにはまったくない。
こうして見ると、孫権がいったいどうして前述の任命を行なったのかがむしろ摩訶不思議である。稀代の明君であっても、たまたま「殿ご乱心」の時もあるのだろう。
しかしそれに対して、当の厳シュンの方は至って冷静でしっかりとしていた。彼は天から降ってくるような大出世のチャンスを喜ぶことはいっさいなく、高い官位と権勢を手に入れるような誘惑に負けることもない。
彼の昇進を願う周辺の人々の喜びの声に惑わされることもなく、主君孫権からの任命を徹底的に固辞したのである。
おそらく厳シュンは本心から、一介の文人としての自分の限界をきちんと認識して、この任命は自分にとっては決して福でもなければ幸運ではなく、むしろ禍の元であることを分かっていたのであろう。
軍事上の攻め合いが日常茶飯事であって部将や兵士による反乱もよく起こる大乱世の中では、軍事的経験のまったくない一介の文人が大軍を率いて要所を守備することとなると、敵軍に攻められて敗退するか、部下たちの反乱や裏切りで命を失うのかのどちらかになる可能性は大。
どっちみち、厳シュン自身にとってはまさに身の破滅なのである。彼の必死の辞退を前に、おそらく孫権も自分の任命の愚かさを悟ったのであろう。結局、孫権は厳シュンの辞退を許した。
これで厳シュンは、間違った任命がもたらそうとする災いから逃れることができたし、主君の孫権も間違った任命から生じるかもしれない軍事上の失敗を免れることができた。厳シュンの必死の固辞は、君臣の双方と呉の国にとってじつに最善の結果となったのではないか。
これで難を逃れた厳シュンはその後、引き続き呉の国の政権中枢で活躍し、最後には尚書令の官位に上り詰めた。政務の傍ら、彼は学問の研究に精を出し、『孝経伝』という書物を後世に残した。そして78歳まで生きて、日本流に言えば「畳の上」での大往生を成し遂げた。
乱世を生き抜く彼の最大の知恵はやはり自知の明、己の限界をきちんと分かっていて、限界を無理矢理に超えて過分な栄達や権勢を求めない知恵である。現在に生きるわれわれにとっても、それこそが体得すべき最重要の知恵の一つではないのか。
更新:11月22日 00:05