写真:吉田和本
『三国志』の時代は、大量殺戮が日常的な風景となっている大乱世でもある。黄巾の乱(184年)が始まる前の後漢王朝末期に5000万人もいた人口は、乱世の終わりには1000万人程度しか残らなかった。5人に4人が殺される時代、人びとは主君や周囲とどんな人間関係を築き、生き残りを図ったのか。
本稿では、三国志上で登場する文人官僚・厳シュンが己の限界を認識することこそ乱世を生き抜く能力であると証明している一説を紹介する。
※本稿は、石平『石平の新解読・三国志』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。
乱世を切り抜けて良き人生を送る、という点に関して、『三国志』上の達人というべき人物の事績を紹介したい。呉の国の主人である孫権に仕えた厳シュン(げんしゅん)という人である。『三国志』「厳シュン伝」が、厳シュンの由来・人となりについてこう記している。
「厳シュンは、字を曼才といい、彭城の人である。若い時代、学問に専念して『詩経』『書経』、三礼(『儀礼』『周礼』『礼記』)によく通じ、加えて『説文解字』を好んだ。世の中の乱れを避けて江東に移住し、諸葛瑾や歩シツ(ほしつ)にならぶ名声を得て、三人は互いに親しい交わりを結んだ。
その性格は、実直でいちずに思いやり深く、見どころのある人物に対しては、真心をもって忠告をし良い導き手となって、ひたすらその人物が進歩するよう心を尽した。張昭が厳シュンを孫権に推挙し、孫権は彼を騎都尉・従事中郎に任じた」(『正史 三国志 呉書2』ちくま学芸文庫、22ページ)
この記述から分かるように、厳シュンという人物は学問をよく修めた人でいわば乱世に生きる学者の一人である。
戦乱を避けて孫権の地盤である江東に移り住み、孫権政権の重臣である諸葛瑾などとも親交を深めた。そしていつの間にか、呉の長老格である張昭に推挙されて孫権に仕官することとなった。
一国の主人の孫権は、厳シュンを魯粛の後任として一万の兵を統率する重要ポストに任じようとした。生前の魯粛はまさに位人臣を極め、呉の国の中で最も権勢のあった重臣の一人である。だが魯粛の死後、どういうわけか孫権は、一文人官僚の厳シュンを魯粛の後任として使おうとしたのである。
厳シュン本人にとってそれは本来、滅多にない大出世のチャンスであった。当時の彼の官職は「従事中郎」であって、孫権の近くに仕える参謀副官の一人であるにすぎない。
その彼が魯粛の後任に任命されることは、現代の感覚で言えば要するに首相補佐官の一人がいきなり大臣に取り立てられるような話だ。しかも、一万人の兵を与えられて陸口という国防上の要所の守備を任されるのは、要するに厳シュンが重責と同時に大変な権力と権勢を手に入れることだ。
政治の世界に生きる人間にとっては願ってもない一世一代の出世のチャンス、まさに棚から落ちてくる餅である。普段の官僚や臣下ならば、喜びの涙を流してこの任命を引き受けるところであろう。
更新:11月21日 00:05