Voice » 政治・外交 » 日本人抑留者が建てた「オペラハウス」 モンゴルに現存する真摯な労働の痕跡

日本人抑留者が建てた「オペラハウス」 モンゴルに現存する真摯な労働の痕跡

2025年08月08日 公開

早坂隆(ノンフィクション作家)

モンゴル国立劇場
モンゴルに現存する国立オペラ劇場

シベリア抑留が広く知られる一方で、多くの日本人がモンゴルにも送られていたことはあまり知られていない。ウランバートルには、そうした日本人抑留者たちの手によって築かれた建造物が、いまも数多く残されている。ノンフィクション作家の早坂隆氏の著書『世界の旅先で、「日本」と出会う』より紹介する。

※本稿は、早坂隆著『世界の旅先で、「日本」と出会う』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです

 

日本人抑留者が築造したオペラハウス

ウランバートルの中心部に位置するスフバートル広場の周辺には、かつて日本人が築いた建造物が多く並んでいる。市役所、証券取引所、オペラ劇場といった建物は、すべて戦後に日本人が築造したものである。

これらをつくったのは「日本人抑留者」たちであった。

1945年8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄する形で、ソ連軍が満洲国に侵攻。この動きに同調したモンゴル人民共和国は、その翌日、日本に宣戦布告した。

8月15日に戦争終結。ソ連軍は満洲にいた日本人を拘束し、強制連行した。いわゆる「シベリア抑留」である。これは「武装解除した日本軍将兵の帰還と、彼らの平和的且つ生産的な生活ができる機会」を保証したポツダム宣言第九項に抵触するものである。許されざる国家犯罪であった。

ただし、連行先はシベリアだけではなかった。シベリア経由でモンゴルまで送られた者たちも大勢いたのである。その数は、実に1万2000人から1万5000人にも及んだとされる。

抑留者たちは充分な食糧も与えられないまま、苛酷な労働を強いられた。ジャルガラント国営農場では、栄養失調や疾病で絶命する者が相次いだ。アルシャン煉瓦工場では、一日に一人300枚の煉瓦をつくることが求められたが、そのノルマは600枚、1000枚、そして2000枚へと引き上げられていった。

また、後に「暁に祈る事件」と呼ばれることになる悲劇も発生した。

戦時中、陸軍憲兵曹長だった吉村久佳(本名・池田重善)は、ウランバートルのとある収容所内でモンゴル側から「日本人隊長」に指名されたが、彼はノルマを達成できなかった入所者たちに対し残酷な処罰を繰り返した。

その処罰の中には、減食や絶食の他、極寒の野外の木や柱に入所者を縛り付け、朝まで放置しておくといったものまであった。捕縛された者は明け方には瀕死の状態となり、頭を垂れて朝日に祈るような姿になった。このことから、「暁に祈る事件」と命名されたのである。「暁に祈る」とは、戦時中の流行歌の題名である。

この事件は戦後、新聞報道によって知られるようになったが、話が一人歩きした面もあり、事実としては今も不明な点が多い。

そんな中、この事件を実際に知る方にお話を聞くことができた。斎藤由信さんは終戦時、憲兵伍長として承徳の憲兵隊本部にいたが、その後、俘虜としてモンゴルに抑留された。

斎藤さんは「暁に祈る事件」についてこう語る。

「収容所から使役に出る時、門の脇の木に縛られている兵の姿を私も実際に見たことがあります。その姿は、確かに『暁に祈っている』ようにも見えました。ソ連人やモンゴル人にやられるのならともかく、日本人が日本人に対して行なっているのですから、本当に哀しくて悔しい思いをしました」

斎藤さんはこうも語った。

「朝、起きると隣の者が冷たくなっているということもありましたね」結局、モンゴルに抑留された日本人のうち、およそ1500人から3000人が当地で命を落としたと言われている。

ウランバートルの中心部から北東に15キロほど離れた地に、かつて捕虜収容病院があった場所がある。ダンバダルジャーという地に建つその3階建ての建物は、現在は廃墟となっている。

当時、捕虜収容病院といっても充分な設備や薬品があるはずもなかった。亡くなった抑留者の遺体は、裏山に臨時に設けられた墓地に埋葬された。

現在、この埋葬地には慰霊碑が建立されている。日本国政府によって平成13(2001)年につくられたものである。

慰霊碑の管理人をしているバーダイ・ネルグィさんによると、この地に埋葬されていたご遺骨が収集され、日本に還されたのが1994年から1997年にかけてということである。その事業は、モンゴル赤十字社と日本の厚生省(当時)などの共同で実施されたという。当時、ネルグィさんはモンゴル赤十字社の職員だった。

「土を掘ると、次から次へと骨が出てきました。少しの骨も残さないように、作業は丁寧に行なわれました。土を目の細かな篩(ふるい)にかけて、少しの欠片も見逃さないようにやるのです。一体が揃ったらその奥、というように順々に掘り進めました。一人でも還れない方がいたら可哀想だという思いでした」

この地道な作業によって、実に835柱ものご遺骨が収集された。ご遺骨はこの地で鄭重(ていちょう)に荼毘に付された後、日本に送還された。

そんな抑留者たちの遺作が、ウランバートルの建造物群なのである。

彼らは虜囚の身であるにもかかわらず、目の前の作業を手を抜くことなく黙々とこなした。現在、ウランバートルでは社会主義時代の遺構の老朽化が問題になっているが、日本人抑留者たちの手による建築物は劣化することなく立派にその偉容を保っている。

「日本人は捕虜なのに、真面目に作業をしてこんなに素晴らしい建物をつくった。そんな民族が他にあるだろうか」

とはモンゴル人の率直なる声である。

 

Voiceの詳細情報

関連記事

編集部のおすすめ

特攻隊員になった朝鮮人

早坂隆(ノンフィクション作家)

「ソ連は対日参戦する」極秘情報“ヤルタ密約”をポーランド人密偵が日本人に教えた深い理由

岡部伸(産経新聞社論説委員/前ロンドン支局長)

戦後ドイツはナチス時代を反省したのか? 政府が「多くの党員を免責した」理由

荒巻豊志(東進ハイスクール講師)